ダイタクヘリオス
無事之笑馬
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ダイタクヘリオス 無事之笑馬
秋のマイル王を決めるマイルチャンピオンシップ(G1)。
これまで40回ほど開催された歴史あるG1レースを連覇した競走馬は、ニホンピロウイナー・タイキシャトル・デュランダル・ダイワメジャー(妹は緋色の風と謳われたダイワスカーレット)・グランアレグリアといった僅か数頭。その名だたる名馬名牝と肩を並べる実績を持つ馬がもう1頭存在した。
その名はダイタクヘリオス
そんな彼は、同一の平地重賞マイラーズカップ(G2)を2年連続5馬身差以上で勝った凄い記録を保持するなど、最強マイラーの名をほしいままにしたと思いきや、1番人気ではほとんど勝てない。
マイルが得意なのに中長距離も走る。頑丈な馬体で連闘もお構いなし。暴走によりレースを壊す。といった個性溢れる名馬だった。
今回は、そんな自由気ままに走り続けたマイル王の記憶を呼び戻したい。
太陽神誕生
父ビゼンニシキは、無敗の三冠馬シンボリルドルフの初代ライバルとして名を馳せた。
なお、シンボリルドルフが日本馬同士のレースで唯一1番人気を譲った相手でもある。そして、母は競走馬として出走することがなかったネヴァーイチバン。その父がネヴァービートというのがダイタクヘリオスの血統である。
失礼だが、如何にも上手くいきそうでいきそうにない。そんなイメージを持つ血統背景が、のちに自由気ままな彼を作り上げたのかも知れない。
こうして1987年4月に北海道の平取町でダイタクヘリオスは産声を上げた。なお、馬名の由来は冠名にギリシャ神話の太陽神ヘリオスから取ったものである。
丈夫な馬体
幼駒時代から気性も荒いところはなく落ち着いた馬だったダイタクヘリオス。
特記する点は頑丈な馬体を持っていたことだろう。3歳の10月に京都でのデビュー戦を3着とし、中1週で再び新馬戦に出走(当時は、今と違い同じ開催回であれば何度でも新馬戦に出走可能だった)した。結果は2着と惜敗。
同開催回の間なら新馬戦が何度でも出走可能だった頃は、一般的に2回新馬戦に出走するのが通常。しかし、ダイタクヘリオスはさらに連闘で3回目となる新馬戦に出走した。3度目の正直ではないが、ここで初勝利を挙げる。
だが、頑丈な馬体を持つダイタクヘリオスは、続く4戦目に重賞4着、条件戦で1着、暮れの阪神3歳S(G1)で2着と10月のデビューから僅か2カ月半もの間に6戦(2-2-1-1)を走り切ったのである。G1で2着に好走するほどの競走馬がこれだけ酷使されるのは、どうなのかと思うところだが、それに有無も言わず走り切るダイタクヘリオスの根性は相当なものであったのだろう。
オッズが読める馬
デビューから2カ月半で6戦も走り切る太陽神は、それこそ自由気まま故に何かと話題が多い競走馬であった。ここで伝説となった彼のエピソードをいくつか紹介したいと思う。
まずはオッズが読める馬と言われた。
それは、生涯戦績は35戦10勝のうち1番人気(支持を受けたのは6回)で勝ったのは1回だけ。あとの9勝は全て2番人気以下だった。
ムラっ気が強くダイタクヘリオスを信じて馬券を購入した競馬ファンを裏切ることから、オッズを見て走ると言われたのが由縁でオッズが読める馬だと競馬ファンからはよく罵倒された。
笑いながら走る馬
次に笑いながら走る馬である。
これは、レースや調教において、折り合いが付き、きっちり走った場合よりも最初から引っかかって飛ばしてしまうバタバタ走法の方が好走すると言われた。
その姿は常に大きく口を割って走る姿を見た多くの競馬ファンから、笑いながら走っているみたいと言われた。その由縁から人気のあるなしを見ながら笑い走ってファンを欺いたとも言われている。
もしかするとダイタクヘリオス自身は、ファンを欺く光景に笑いが堪えられなかったのかも知れない。
令嬢に恋をした馬
また、もう1つ競馬ファンの中で話題になったエピソードがある。それは彼の恋話であった。
5歳となった彼は初戦のオープンクラスで2番人気ながら4着に惨敗。続くマイラーズCでは、武豊騎手を背に4番人気ながら2着に5馬身差以上付け当時のレコードタイムにて圧勝する。かと思いきや次走のダービー卿チャレンジトロフィー(G3)では1番人気ながら4着に敗れた。
春のマイル王決定戦である安田記念(G1)に狙いを定めるも頑丈なダイタクヘリオスは、休むことなくもう1つ出走した。それが1991年の京王杯スプリングC(G2)、彼には運命的な出会いが待っていた。
それは、レース自体がハイペースなのに掛かってしまうという謎の現象で6着に敗退。その敗退理由こそが優勝馬のダイイチルビーだったからではないかと話題になったのだ。
ダイイチルビーを意識した挙げ句の末路。競馬ファンの中ではそう言われたのだった。
そのダイイチルビーは、父が天馬と呼ばれたトウショウボーイ。母は華麗なる一族を受け継ぐハギノトップレディという超良血馬。人間に例えるとお嬢様である。
そんなお嬢様に自由奔放の彼が見合う訳もないが、次走の安田記念では、前走と打って変わりハイペースで進んだレース展開も東京の長い直線を逃げ切み体制を図った。
しかし、残り100mあたりでお嬢様の豪脚が炸裂し最後は交わされての2着。10番人気という低評価だったにも関わらずダイイチルビーの2着に入ったことで再び高評価を受けた。
令嬢に恋をした馬 その2
5歳となり、いよいよ馬体も本格化したと期待された次走のCBC賞(G2)では5着に敗退。
もはや強いのか弱いのか分からない状態のまま迎えた次走は高松宮杯(当時はG2、芝2000m)だった。
ここで3度目となる令嬢との対決。
レースは安田記念同様に逃げ切り体制を図ったダイタクヘリオスが圧倒的1番人気だったダイイチルビーの猛追を抑え込む形で優勝。
その結果に競馬ファンは、ダイイチルビーの前だから気合が入ったので勝ったなど揶揄されるようになり、その後、両馬の対戦(8回)が多かっただけに恋人みたいと盛り上がりを見せた。
ちなみに両馬の対戦成績は、4勝4敗と引き分けに終わる。
なお、数年後にそれぞれが種牡馬、繁殖牝馬となるわけだが実際に交配は実現しなかった。
しかし、某競馬漫画では恋愛風に描かれており、また某競馬ゲーム内では交配された仔が誕生し強力なライバル馬として登場している。
それだけ両馬の関係は恋愛ドラマ的な扱いを受けたのである。
暴走バカコンビ
恋人と揶揄されたダイイチルビーが引退するも6歳となったダイタクヘリオスは現役を続行。
そして、彼の1番有名なエピソードとなるメジロパーマーとの暴走対決が翌年に話題となった。
1992年の天皇賞・秋(G1)では、メジロパーマーとともに最初の1000mを57秒5というサイレンススズカ並みの逃げを披露。
残り200mまでは粘りを魅せたが最後はレッツゴーターキンら先行勢に差され、8着と惨敗。
先の天皇賞・秋で大逃げを打ったメジロパーマーと再び大逃げを共演したのが同年暮れの有馬記念(G1)。
このレースはダイタクヘリオス自身の引退レースとなったが、自らがペースを乱しメジロパーマーのお膳立て役となり12着。自身の引退に華を添えるどころかメジロパーマーに花を添える形となった。
そんな彼はメジロパーマーと一緒になって逃げるとペースが狂いトウカイテイオーやライスシャワーなどの人気馬が見せ場なく馬群に沈んだことで馬券的に大波乱を呼んだため、競馬ファンからは「バカコンビ」と呼ばれた。
それでもダイタクヘリオスは、1991年と1992年のマイルチャンピオンシップを連覇したマイル王である。
意地の一発
マイルでは無類の強さを発揮し、中長距離の有馬記念や天皇賞・秋などではペースを乱す暴走を見せたりと自由気ままに現役生活を走り切ったダイタクヘリオスはマイル王の看板を掲げ種牡馬入りした。
しかし、ダイイチルビーと縁がないことにご立腹だったのか、生涯で289頭の仔を輩出するもなかなか種牡馬として成功しなかったが、種牡馬生活も晩年に近づきダイタクブレインズ(父テスコボーイ)との間に生まれた息子ダイタクヤマトがスプリンターズS(G1)にて16頭中の最低人気で勝利。結果的にファンを嘲笑う血が息子にも受け継がれた形となった。
そして、最低人気で場内を沸かせた孝行息子のお陰でダイタクヘリオスはG1輩出種牡馬の仲間入りを果たした。
その後、、内国産種牡馬として息子のダイタクヤマトも種牡馬入り。ビゼンニシキから続く親子三代の内国産種牡馬入りも達成。
個性派が多い時代の中でも特に個性派を前面に押し出して活躍したダイタクヘリオス。馬券的にも裏切られたファンは多く存在するのではないだろうか。
その分、自由気ままに走った頑丈な馬体の持ち主、無事是名馬いや無事是笑馬ダイタクヘリオスの記憶は個性派好きの競馬ファンの中にずっと生き続けることだろう。
※馬齢は旧表記(現表記+1歳)で表記としている。
ビゼンニシキ | ダンディルート | Luthier |
Dentrelic | ||
ベニバナビゼン | ミンスキー | |
カツハゴロモ | ||
ネヴァーイチバン | ネヴァービート | Never Say Die |
Bride Elect | ||
ミスナンバイチバン | ハロウェー | |
スタイルパッチ |
生涯戦績 35戦 10勝(10-6-1-18)
主な勝鞍 マイルチャンピオンシップ(2回)
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