スペシャルウィーク|歴代最強馬|日本総大将|名馬たちの記憶⑫

名馬たちの記憶
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スペシャルウィーク
日本総大将

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スペシャルウィーク 日本総大将

全てのホースマンが夢見る日本ダービー(G1)。
幾多の大レースを制した名騎手も日本ダービーを勝てないまま、引退することも当たり前にある厳しい世界。
その競馬界において、ダービーウィークは特別な週と呼ばれ、厩舎やトレセンなどでは独特の雰囲気を漂わせるという。
そんな最も格式ある日本ダービーをこれまで6回も制した天才・武豊騎手であっても日本ダービーを勝つのにデビューから10回の挑戦を要した。その天才に初めてダービーという栄冠をもたらしたのがスペシャルウィークである。
今回は、天才が初めてダービーを制した相棒スペシャルウィークが死線を彷徨った壮絶な誕生からの記憶を振り返りたい。

母を失った華奢な仔馬

1995年5月、北海道門別にある日高大洋牧場で今やシラオキ系と呼ばれる一大牝系となった戦後初期の名牝シラオキを曽祖母に持つキャンペンガール(未出走)が華奢な黒鹿毛の牡馬を産んだ。
そのキャンペンガールは父マルゼンスキーに気配がよく似ていて期待された馬だったが、デビュー前に腰を強く打ち競走馬としてはデビューすることができなかった。

しかし、名牝シラオキの血を継いでいたため繁殖牝馬入り。彼女自身、5度目の相手に選ばれたのが大種牡馬サンデーサイレンスであった。その大種牡馬との間に生まれたのがのちのスペシャルウィークである。

スペシャルウィークが誕生から遡ること半年前。
キャンペンガールは疝痛せんつう(馬の腹痛)に悩まされていた。疝痛とは食べ物と一緒にのみ込んだ空気をゲップなどの形で口から吐き出せない馬が罹患しやすい病気の1つ。それが悪化すると腸捻転や異破裂などで即死することもあり、馬にとってはただの腹痛ではなく厄介な病気である。
蛇足だが、その腹痛から最悪の事態を起こしてしまったのが、僅か8歳という若さで世を去ったナリタブライアンである。

さて、キャンペンガールは出産の3カ月前から週に2回ほど疝痛を起こし、獣医からは腸の一部が壊死していると診断され生命の危機にさらされた中で出産したのである。
そして、命懸けで産んだ我が仔を見ることなくキャンペンガールは、その5日後にこの世を去ることになる。

乳母との出会い

生まれたばかりの小さな仔馬には母の乳を与えなければ死んでしまうため、すぐさまキャンペンガールの代わりとなる乳母が必要となった。

そこで輓馬ばんばと呼ばれる重種馬(サラブレッドは軽種馬)が用意されることになる。
しかし、血の繋がっていない母の乳を仔は飲まず、乳母もやや気性が荒く仔を遠ざけようとした。これでは大種牡馬と牧場が培ってきた大事な牝系を継ぐ仔馬が母を追ってしまうことになる。
生産者は苦渋の決断として慣れるまでの間、木で櫓を組み乳母が動けないようにして仔馬が乳をいつでも飲めるような対策を講じた。

そして、数日が経つと代理母と仔馬はある程度、受け入れる態度を取ったのだった。代理母の乳で育った華奢な馬体をした黒鹿毛の牡馬が3年後、天才に初めて栄冠をもたらす競走馬に成長するとは、この時いったい誰が想像したであろうか。

大物感を秘めた馬

重種馬の乳は通常の軽種馬よりも2、3倍の量が多く出るため他の仔馬たちよりも離乳時期が早まったスペシャルウィーク。

幼少期は、乳母と人間の手で育ったため他の仔馬たちに交じることなく1頭で過ごすことが多かったという。また、馴致も嫌がらず人の手を煩わせることなく素直に育っていった。
そして、1997年10月に阪神競馬場にて競走馬として無事にデビューを果たす。調教から前評判を受けたスペシャルウィークは鞍上に武豊騎手を迎え堂々の1番人気。

レースでは、2着のレガシーハンターに2馬身以上も差をつけ快勝。これには武豊騎手も「素質は充分、大物感を秘めた馬ですね」とコメントした。

しかし、年が明けて4歳(現3歳表記)となり彼自身、2戦目となる条件戦ではハナ差の2着に敗れたが、陣営はスペシャルウィークの素質を見抜いてか、3戦目には格上挑戦となるきさらぎ賞(G3)を選択。

競馬ファンも彼の素質を知ってか、1勝馬でありながら1番人気に支持した。すると期待に応えるようにして2着のボールドエンペラーに3馬身半差をつけての圧勝劇を見せたのである。

天才を初栄冠に導く

3戦2勝としたスペシャルウィークは一気にクラシック候補に名乗りを上げた。
そのことで当然マスコミも注目し始め『生後間もなく母を亡くし輓馬に育てられた馬』として話題を呼び、天才の騎乗もその話題を後押しした。

そんな乳母に育てられた華奢だった仔馬はクラシック第1弾皐月賞(G1)を目指しトライアルレースである弥生賞(G2)に駒を進めた。

ここでは強敵セイウンスカイとの初対決となったが半馬身差で勝利。重賞2勝目とし皐月賞最有力候補となった。
しかし、その皐月賞では前走の弥生賞で退けたセイウンスカイの逃げ脚に屈してしまい、3着に敗れてしまう。

皐月賞を1番人気で3着とファンを裏切る形となったスペシャルウィーク。
それでも陣営は自信を持って当初の予定通り日本ダービーに送り出した。ダービー当日は曇り空、稍重となった東京競馬場。

その日の朝、日高大洋牧場では生産者自らがキャンペンガールの墓前にて今日、息子がダービーに出走するとの報告をしたという。何とも競馬の浪漫が詰め込まれた感動のワンシーンであろうか。
その母なき息子は、皐月賞3着ながらも再度1番人気に支持された。

見方を変えれば、いかにファンが天才の初栄冠を期待していたのか如実に現れたとも言える。その天才は、2年前の同じ舞台で断然の1番人気だったダンスインザダークに騎乗して2着と苦汁を飲み、今度こそダービージョッキーになるため、10度目の挑戦をスペシャルウィークと挑んだ。
レースでは、タイミングが合わずやや出遅れを見せた。しかし、生後間もなく母を亡くし乳母の乳が馬体に織り込まれた形で死線を越えた華奢な仔馬はダービー馬に相応しい競走馬と成長していたのだ。

終わってみれば、他馬が並ぶ間もなく一気に先頭に立ち、2着のボールドエンペラーに5馬身差の圧勝――何度もガッツポーズする武豊騎手にスペシャルウィークが初栄冠をプレゼントした瞬間だった。

苦境を知るがゆえに

第65代日本ダービー馬となったスペシャルウィーク。
次に目指すのはクラシック最後の1冠である。夏の休養後に臨んだ京都新聞杯(G2)を勝利で飾り、万全の態勢で迎えた1番人気での菊花賞(G1)。

しかし、ここでは皐月賞馬セイウンスカイに敗れ、2着。惜しくも二冠馬とはならず、逆にライバルのセイウンスカイに二冠を持っていかれる形となった。
それでも日本ダービー馬として、これ以上は負けられないと次に挑んだのは世界の強豪が集ったジャパンカップ(G1)。だが、ここでも1番人気に支持されるもエルコンドルパサーの後塵を踏む形で3着と惜敗。

ダービー馬の宿命だろうか。勝たなければ、いくら良い競馬をしても馬券圏内に入ったとしても競馬ファンからの視線は冷たいものである。
そして、そんなスペシャルウィークに対して追い打ちをかけるような事件が1カ月後に起こるのである。それは故郷、日高大洋牧場が原因不明の火災に遭い馬房がほぼ全焼するという悲劇に見舞われた。

生誕と同時に母に先立たれ、ダービー馬として輝くも惜敗続きの中、故郷が全焼。これほどまでに苦境を知った競走馬がいただろうか。しかし、苦境を知ったスペシャルウィークだからこそ、5歳(現4歳表記)になる翌年、反逆の狼煙を上げることになるであった。

復活の狼煙も……

ダービー勝利後、不甲斐ない惜敗が続いたスペシャルウィーク。
しかし、年明け初戦となったアメリカジョッキーズクラブC(G2)にて、1番人気で勝利すると続く阪神大賞典(G2)でも強敵メジロブライトを破って勝利した。

そして、迎えた春の大一番、5月2日の天皇賞・春(G1)である。
奇しくもこの日は、4年前に生まれた彼自身の誕生日。ここでも新たな宿敵となったメジロブライトを再び撃破。ダービー以来となるG1・2勝目を挙げて見事、日本ダービー馬が復活を果たしたのである。改めて『スペシャルウィーク強し!』と競馬ファンの脳裏に焼き付いた。

しかし、次走の宝塚記念(G1)前、年内での引退と凱旋門賞挑戦のプランが発表された中、堂々の1番人気で出走するも外国産馬の怪物グラスワンダーに3馬身差を付けられての2着惨敗。
やはり日本ダービー馬の宿命だろう。たった1度でも敗れるとファンの脳裏には、やっぱり外国産馬の怪物には敵わないと強く印象付ける結果に終わってしまったのである。

多大なる宿命を背負ったままスペシャルウィークは、夏の休養を経て京都大賞典(G2)に出走した。しかし、このころから調教で動かなくなったり、馬体重がダービーの時よりも+20kg近くなっていたことから調整不足が懸念された。
案の定、レースでは、1番人気に支持されるも直線では全く伸びを見せず、あれほど強かったスペシャルウィークはどこにいったのかと思われてしまうほどの大惨敗。
これまで彼自身のキャリアで初めてとなる掲示板外の7着に敗れてしまう。春先に復活を見せたスペシャルウィークはどこにいってしまったのか。

日本総大将

このままでは日本ダービー馬として、また多大な宿命を持った競走馬として終われるわけがない。
しかし、調教では1勝クラスの条件馬に併せ馬でも負けてしまうほどの出来栄え。
それでも京都大賞典の大敗北を受けて陣営が取った作戦は、ダービーを取った頃の馬体重に戻すというものだった。

そして、迎えた天皇賞・秋(G1)。
当日の馬体重は前走よりもー16kgと発表された。そんなスペシャルウィークの姿を見た競馬ファンは正直である。
これは絞ったのではなく調整不足、調教失敗などと判断され、これまで1番人気に支持され続けたスペシャルウィークが初めて4番人気と大きく支持を下げた。
ところが、彼は苦境を知り、乗り越えてきた競争馬である。
レースでは道中後方待機に徹し、東京の長い直線で豪快な末脚を披露。ステイゴールドをクビ差に抑えてのレースレコード勝利。
この勝利で1988年のタマモクロス以来、史上2頭目の天皇賞春秋連覇を達成した。

そして、迎えた昨年3着だったジャパンカップでは凱旋門賞馬モンジューなど世界の超一流強豪馬が参戦する中、日本の総大将として世界のモンジューに1番人気を譲るも2番人気での出走になった。
いくら世界の強豪馬が参戦とはいえ、日本ダービー馬として地元日本では負けることは許されないとスペシャルウィークの豪脚が火を吹き、12番人気だった2着の香港馬インディジェナスを抑えて優勝。

見事G1・4勝目を挙げ、再三となる『スペシャルウィークは強し!』との印象を競馬ファンの脳裏に焼き付けた一戦となったのである。

その血は娘たちに…

この年で引退と表明した通り、ラストランとなった暮れの大一番、有馬記念(G1)。
ここでは怪物グラスワンダーと再戦となった。レースでは、そのグラスワンダーとゴール前一騎打ちとなる形に。2頭同時にゴールするも体勢はスペシャルウィーク有利と見られた。
鞍上の武豊騎手は勝利を確信する。

しかし、写真判定の結果、僅か4cmの差でグラスワンダーに軍配が上がったのだった。これには、武豊騎手も「競馬に勝って勝負に負けたという感じ」とコメントを残した。
まさに競馬に勝ち、勝負に負けることが多く目立ったスペシャルウィーク。しかし、日本ダービー馬ゆえに多大な宿命を背負わされた中でG1・4勝、2着3回は日本歴代最強馬に相応しい名馬と言えるのではないだろうか。

引退後、種牡馬入りしたスペシャルウィークは述べ1236頭の産駒を輩出。
中でもブエナビスタシーザリオといった日本競馬史上に燦然と輝くとんでもない名牝たちを残した。そして、17年の種牡馬生活を終えた後、生まれ故郷の日高大洋牧場にて余生を送り23歳で生涯の幕を閉じた。
誕生とともに母を亡くし乳母の手によって育てられ、天才を日本ダービーに初めて導いたスペシャルウィーク。

また、凱旋門賞馬を撃破した日本総大将スペシャルウィーク。
その偉大な血は現在、エピファネイアを始めとするシーザリオの息子たちによって多くの競走馬に受け継がれ、その名は天才が天才であり続ける限り、日本馬が世界の強豪馬と渡り合える日が来るたび、永遠に深く競馬史に輝き続けることだろう。

サンデーサイレンス Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
キャンペンガール マルゼンスキー Nijinsky
シル
レディーシラオキ セントクレスピン
ミスアシヤガワ

生涯戦績 17戦 10勝(10-4-2-1)
主な勝鞍 日本ダービー、天皇賞・春、秋、ジャパンC

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