タヤスツヨシ|歴代最強馬|SS産駒初のダービー馬|名馬たちの記憶⑯

名馬たちの記憶
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タヤスツヨシ
SS産駒初のダービー馬

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タヤスツヨシ SS産駒初のダービー馬

1990年以降、日本競馬の血統背景を大きく塗り替えた大種牡馬サンデーサイレンス
その偉大な父サンデーサイレンスに日本ダービー(G1)という栄冠を初めてプレゼントした馬をご存知だろうか。
今でこそ、サンデーサイレンス産駒やその孫世代が日本ダービーを制覇する光景は珍しくない。しかし、サンデーサイレンス産駒初の日本ダービー馬という名は永遠に日本競馬史上に輝き続けるだろう。
今回は、日本ダービー史上最弱のダービー馬と呼ばれながらもサンデー産駒初の日本ダービー馬タヤスツヨシの記憶を振り返りたい。

サンデーサイレンス初年度産駒として

タヤスツヨシは1992年4月に北海道社台ファーム千歳にて誕生した。
父は1991年に米国から輸入された新種牡馬サンデーサイレンス。母は大種牡馬カロの直系繁殖牝馬マガロである。
当時、サンデーサイレンスの血が日本競馬界の底上げとディープインパクトを始めとする仔たちによって種牡馬サンデーサイレンス系が確立されるとは、いったい誰が想像しただろうか。
そんな偉大な父の血を受け継いだタヤスツヨシは、父の激しい気性の血が燃えたぎるように幼少期を過ごしたという。
そして、タヤスツヨシと同世代となるサンデーサイレンス初年度産駒たちが日本競馬界に衝撃を与えるのは、これから2年先の話である。

SS時代到来の兆し

タヤスツヨシは1994年8月に札幌競馬場にてデビュー。
その
デビュー戦では3番人気で3着。続く2戦目でも2番人気で3着と、あと一歩ワンパンチが足りない印象だった。しかし、1カ月後に出走した中京競馬場での未勝利戦では2番人気ながらも圧勝劇を見せ初勝利を飾るのである。
その2週間後には、もみじS(OP)に出走。ここでタヤスツヨシは同じ父を持ち、のちに幻の三冠馬と言われることになるフジキセキと初対戦することになった。
なお、フジキセキは後の3歳王者であり、この時点で既に王者の貫禄があったと言う。結果的にもフジキセキの2着に敗れてしまうが着差以上にタヤスツヨシは、フジキセキには勝てないと思ったかも知れない。それほどに勝ったフジキセキの風格が他馬と明らか違っていた。

フジキセキに敗れた後、タヤスツヨシは12月初旬に500万下(現1勝クラス)クラスのレースで勝利し2勝目を上げた。
続く2週間後にはラジオたんぱ3歳S(G3)では2番人気で出走。ゴール前で1番人気のナリタキングオーに迫られるものの辛勝。見事、重賞初制覇を成し遂げた。
年の瀬を迎え、早くも競馬界ではタヤスツヨシを始めとするサンデーサイレンス産駒の勝ち上がりが目立っていた。中でも台頭したのは3戦3勝無敗で朝日杯3歳S(G1)を横綱相撲で制し、3歳王者に輝いたフジキセキ。

「来年のクラシック戦線は牡馬牝馬ともサンデーサイレンス産駒から馬券を買えば的中するぞ」

そんな風評が流れるほど、SS産駒は、もの凄い勢いを見せる。これがサンデーサイレンス旋風の始まりだった。

2歳王者の離脱

年が明け、王者フジキセキの影で息を潜めながら台頭を狙うタヤスツヨシは、2月の共同通信杯4歳S(G3)から始動した。
前年のラジオたんぱ3歳Sを制したことで裏側の3歳王者となったことが評価。プラスして武豊騎手の騎乗も支持率アップに繋がりレースでは1番人気に支持された。
しかし、ここではナリタキングオーの2着に敗れてしまう。
翌月に入ると若葉S(OP)にも1番人気で出走するも同じサンデーサイレンス産駒のジェニュインに大きく離され5着と大敗。
一方の王者フジキセキは、弥生賞を勝利し4戦4勝とし、サンデーサイレンス産駒で俺が一番強い。と言わんばかりに格の違いを見せ付けていた。ところが、その弥生賞を勝利した後にフジキセキに故障が判明する。

これまでの日本競馬で三冠馬となったのは僅か8頭しかいない。三冠馬は10年に1度あるいは三冠馬の出た翌年に誕生するとの傾向がある。そんなフジキセキも前年のナリタブライアンに続いて三冠馬と期待されたが惜しくも引退。
これで王者不在となった牡馬クラシック戦線は混戦状態となるのである。

最も運のある馬

牡馬クラシックにおいて、
「皐月賞は、最も速い馬が勝つ」
「日本ダービーは、最も運のある馬が勝つ」
「菊花賞は、最も強い馬が勝つ」
と古くから競馬の格言たるものがある。

さて、主役不在となり迎えた皐月賞(G1)。1番人気は、ここまで7戦4勝、2着2回と抜群の安定力を持ったニッポーテイオー産駒のダイタクテイオー
若葉Sでタヤスツヨシを破ったジェニュインが2番人気となり、直近で勝ちきれなかったタヤスツヨシの評価は4番手となった。
レースはダイタクテイオーが馬群に沈み、ジェニュインがクラシック第1弾を制覇。その中でタヤスツヨシは出走馬中の上がり3ハロンを最速で駆け抜けての2着。次走の日本ダービーに弾みをつけた。

そして、迎えた大一番、日本ダービー。何と競馬ファンは、皐月賞馬ジェニュインよりも皐月賞で魅せたタヤスツヨシの最速の末脚を選んだ。僅差だが堂々の1番人気となる。

レースでは、中断待機の戦法を取ったタヤスツヨシ。最後の直線、約600mと長い東京競馬場を最速で走り抜ける。これがタヤスツヨシの競走馬人生において、最高の走りとなったところが彼の持つ運だろう。最後は2着のジェニュインに1馬身半差を付け栄光を手にする。

『勝ったのは14番タヤスツヨシ!皐月賞の1着2着は強かった!』

実況アナの言う通り、この年のクラシック二冠はサンデーサイレンス産駒のワン・ツーで幕を閉じた。そして、タヤスツヨシはサンデーサイレンス初年度産駒として日本ダービーという大きな称号を父に初プレゼントしたのだった。

運が尽きた馬

日本ダービーの称号を手にしたタヤスツヨシ。しかし、これには賛否両論があった。
それは、ダービーの
1週間前にオークスを勝った同じサンデーサイレンス産駒ダンスパートナーの方が速いタイム(ダービーとオークスは同じ東京競馬場の2400mで行われる)だったことや最後の直線で斜行、良馬場にしては走破タイムが遅いなど。
これによって、タヤスツヨシは”最も弱いダービー馬”ではないかと言われるようになった。
ただ、タヤスツヨシには日本ダービーを手にする運を持っていた。
しかし、その後の成績が散々だったため、それが最弱ダービー馬と追い打ちをかけたかも知れない。

その散々な結果とは、夏を経て菊花賞(G1)を目指す中、1番人気ながら神戸新聞杯(G2)では5着、京都新聞杯(G2)7着とともに惨敗。
挙句の果てには、本番の菊花賞で5番人気にまで支持が落ち、6着でゴール。なお、5着には牝馬ながらも菊花賞に挑戦したオークス馬ダンスパートナーだった。

ダンスパートナーにも先着されるとは、やはり最弱のダービー馬ではないか――タヤスツヨシに対し世間の風評は、より一層に厳しいものとなってしまった。
ただ、日本ダービー馬は日本ダービー馬である。
翌年になると何とか名誉挽回を懸けて調整するものの屈腱炎を発症してしまう。
そして、サンデーサイレンス産駒初のダービー馬は、運にも見放される格好となり無念にも引退となった。
 

産駒に夢を託して

最弱の日本ダービー馬と揶揄されたタヤスツヨシは、1996年から種牡馬として第2の馬生を送った。そして、種牡馬としてもG1馬を輩出、約800頭もの産駒を残した。
ただ、産駒は不思議と芝よりもダート適正を持つ仔が多く、そのため中央に限らず、地方競馬で多くの活躍馬を輩出している。

また、2014年のスプリンターズS(G1)を勝ち、その年の最優秀短距離馬にも輝いた孫のスノードラゴンを始め、母の父としても血を継承している。

そして、時にはオーストラリアにシャトル種牡馬としても活躍した。島国から遠い異国の地でもタヤスツヨシの血が幅広く継承されていることは嬉しい限りである。
しかし、残念ながら2008年7月末、放牧中の事故で大腿骨を骨折、安楽死処分が下された。享年16歳であった。

種牡馬として一時は運も回復したかに見えたが、最後も運に突き放される形でこの世を去ってしまったタヤスツヨシ。
しかし、彼が残したサンデーサイレンス産駒初の日本ダービー馬という勲章は、後にも先にもタヤスツヨシ自身だけの賜物である。

日本の血統図を塗り替えたサンデーサイレンスの血が今後も絶えない限り、SS産駒初の日本ダービー馬として、タヤスツヨシの名は後世まで永遠に語り続けられるだろう。

サンデーサイレンス Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
マガロ Caro フォルティノ
Chambord
Magic Buckpasser
Aspidistra

生涯戦績 13戦 4勝(4-3-2-4)
主な勝鞍 日本ダービー


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