ヤマニンゼファー|歴代最強馬|ターフを駆け抜けた西風の神|名馬たちの記憶㉓

名馬たちの記憶
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ヤマニンゼファー
ターフを駆け抜けた西風の神

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ヤマニンゼファー ターフを駆け抜けた西風の神

一昔前、メジロマックイーンライスシャワーたちのように中長距離が日本競馬の王道路線だった時代。
しかし、スタミナよりもスピードを重視する昨今の世界競馬とともに日本競馬の主流も中長距離からマイル路線に変化しつつあるが、その中長距離王道時代においてマイルレースの最高峰である安田記念(G1)を連覇し、中距離レースの最高峰、天皇賞・秋(G1)までも制覇した名馬がいた。
その馬はヤマニンゼファー。
今回は王道路線とは別路線でターフに旋風を巻き起こしたそよ風(ゼファー)の記憶に迫りたい。

マイルの皇帝の血を受け継ぐ仔

父はかつて日本競馬において短距離路線を開拓し、マイルの皇帝と謳われ昭和を代表する名馬ニホンピロウイナー
そして、母ヤマニンポリシーは、その母ヤマホウユウが米国まで渡り、スピードに特化した能力を持つ大種牡馬ブラッシンググルームの種を付け日本で生まれたオーナー拘りの競走馬であった。

そんな両親を持つヤマニンゼファーは、1988年5月27日に北海道の錦岡牧場で誕生した。なお、その血統背景はオーナーが短距離に特化した競走馬を指向して配合したものだといわれている。
そして、ヤマニンゼファーはオーナーの目論見どおり、胴が詰まり前後躯が発達した短距離馬特有の馬体に成長していくのである。

その後、順調に成長を遂げていたヤマニンゼファーは3歳(現2歳表記)夏の1990年8月に美浦の栗田博憲調教師の元に預託され、入厩するも直後に骨膜炎を生じてしまう。
そのため、一旦は放牧に出され、調教が大きく遅れることになる。そして、厩舎期待の短距離馬は翌年の3月までデビューがお預けとなった。

期待以上に高い能力を兼ね備えた馬

脚部不安のためデビュー戦が3月9日まで大幅に遅れたヤマニンゼファー。さらに骨膜炎再発も考え、少しでも脚の負担が軽いレースを選定し臨んだ中山7Rの4歳新馬ダート1200m戦。
まだまだ、調整不足の感は否めない中での出走となり、出走馬16頭中12番人気という低評価に支持された。
しかし、レースでは後方待機から一気に駆け上がり1番人気馬に2馬身差をつけて勝利。明らかに他馬にはないスピードを兼ね備えていたヤマニンゼファー。

続く2戦目もダート1200mの条件戦を選定し、中団からなんなく抜け出し最後はハナ差の辛勝で連勝となった。
当初はそれほどヤマニンゼファーに対して高い期待をしていなかった陣営も、この連勝を見てヤマニンゼファーの高い能力を認めることになる。

その結果、次走を急遽、芝のクリスタルC(G3)に鞍上、横山典弘騎手を迎え臨んだ。
管理する栗田調教師は、血統的にもやはり芝の方が適しているはずと判断したが、これは脚部不安を持つ競走馬にとって芝のレースはダートよりも負担が大きいため1つの賭けでもあった。
そして、レースではカリスタグローリの3着に敗れるものの、初の芝であり、重賞レースだったが、その能力が充分に通用する走りを見せた一戦となった。

脚部不安との戦い

先のクリスタルCの内容から陣営は次走をラジオたんぱ賞(G3)に照準を合わせるも、このタイミングで心配されていた骨膜炎が再発してしまう。この結果、再び休養を余儀なくされるのであった。
なお、ヤマニンゼファーのように若駒から、常に脚部不安と戦いながら過ごす競走馬は常に脚元の様子と相談しながらレースを強いられるのが、馬主からしてみればレースの賞金は入ってこず預託料ばかり吐き出すことになる。

それでも栗田調教師は決して無理をさせない調教を徹底、オーナーも理解を示してくれ、ヤマニンゼファーはじっくりと力を蓄えることになる。
後日談だが、栗田調教師は当時のことを「じっくり待ってもらったのが実った。馬主さんにも本当に我慢してもらった」と語っている。

半年後、復帰戦として再度ダート1200mの条件戦を走るも7着と惨敗するも12月に入り同条件のレースで3勝目を挙げた。
すると、準オープンクラスという状況下、果敢にも中2週でスプリンターズS(G1)に参戦することに。これには栗田調教師も一流馬が相手でもそれなりにやれるはずと判断し、いきなり大舞台となるG1に出走させたのだった。

そして、レースでは2番人気のダイイチルビーが2着以下を大きく引き離なし勝利したものの、2着のナルシスノワールとはほとんど差のない7着。この結果から陣営は、ヤマニンゼファーの高い能力を改めて認識し、翌年の目標を安田記念(G1)に定めた。
それは父ニホンピロウイナーも制したマイルの最後方レース。

こうして、ヤマニンゼファーは父と同じマイルの皇帝になるべく道を歩み始めたのだった。

父子二代制覇の偉業へ

年が明け5歳となったヤマニンゼファーは、準オープンクラスで勝利を挙げ、オープン入りした。
そして、安田記念の前哨戦として京王杯スプリングC(G2)に出走。しかし、これまで1200mしか走ったことがなかったヤマニンゼファーにとって今回が初となる1400m。

距離延長が不安視されたのか8番人気の支持だったが、レースではG1馬のダイイチルビーやダイタクヘリオスを抑えて僅差の3着に入り、まずまずの結果を残した。

そして、迎えた大一番の安田記念。ここでヤマニンゼファーにとってさらなる試練が襲う。
1つ目は距離が200m延長されること。
2つ目はこれまで芝のレースの勝利はないこと。
そして、3つ目に安田記念では不利とされる大外枠を引いてしまったこと。

そのため11番人気という低評価となったが、それも重賞未勝利馬でこれまでマイルを走ったことがないので致し方なかった。
しかし、ヤマニンゼファーの能力は本物だったのだ。

レースでは最終コーナー手前から一気にスパートをかけると最後は追い込んできたカミノクレッセを3/4馬身差に抑えて勝利。重賞初勝利がG1という離れ業を見せた。

また、騎乗した田中勝春騎手もG1初勝利となった。そして、この勝利は父ニホンピロウイナーとの安田記念父子二代制覇という偉業達成となったのである。

遠のく勝利

芝レースでの初勝利が安田記念という快挙を達成し春の古馬マイル王に立ったヤマニンゼファー。
もちろん、目指すは秋のマイル王決定戦マイルチャンピオンシップ(G1)である。
しかし、ここから勝てない日々が続くことになる。

まずは休養を経て、秋初戦となったセントウルS(G3)では、初の関西輸送の影響もあってか、体調を大きく崩してしまい2着惜敗。さらに目標であったマイルチャンピオンシップもダイタクヘリオスのレコード勝利の前に5着と敗れてしまう。そして関東に戻ったヤマニンゼファーは、昨年同様スプリンターズSに参戦するもニシノフラワーの強襲に屈し2着惜敗。

年が明け6歳となった初戦のマイラーズC(G2)でもニシノフラワーの2着と善戦はするもなかなか勝てない。

ここで栗田調教師は次走をさらに距離延長を試みることに。
ターゲットとなったレースは中山1800mの中山記念(G2)である。この中山記念の結果次第では、今後の路線を中距離レースに変えることを目論んでいた。

そして、レースではムービースターの4着に敗れはしたものの、その差は僅か0.3秒。鞍上の元祖天才・田原成貴騎手が距離が伸びても大丈夫との太鼓判も後押しとなり、陣営はヤマニンゼファーの秋の目標をGⅠ天皇賞・秋(G1)へと切り替えたのであった。

史上初の快挙

秋の最大目標を天皇賞・秋と定めながらも春のマイル王決定戦に挑んだヤマニンゼファー。
1984年のグレード制導入以後、前人未到の安田記念連覇という大きな目標に対し挑んだ前哨戦の京王杯スプリングC(G2)。

ここで初騎乗となった柴田善臣騎手とヤマニンゼファーは1番人気のシンコウラヴリィを1馬身半差に抑え大一番に弾みをつけた。

そして、迎えた安田記念。
1番人気は、これまでG1で立て続けに敗北を喫していた快速娘ニシノフラワーに続く2番人気に。しかし、このレースでもヤマニンゼファーと柴田騎手は圧巻のレースを見せ、最後の直線半ばで早めに先頭に立つと、そのままリードを保ちゴール。見事に安田記念連覇となった。

また、このレースでG1初勝利となった柴田騎手は、何度も右手を挙げ喜びをかみ締め、栗田調教師も力でねじ伏せた感じ。強かったとヤマニンゼファーの戦いを称えた。

ちなみに2022年現在、安田記念を連覇したのは1992、93年のヤマニンゼファーと2008、09年のウオッカの2頭のみである。

また、グレード制が導入された1984年以降に限ると14頭の名馬たちが連覇に挑むも達成できなかった。特に2016年のモーリス、2021年のグランアレグリアといった日本競馬史に名をも残す名馬たちでさえ2着に終わっている。

いかに歴史的名馬でも簡単ではないのが安田記念連覇といえよう。

新たな道で開花

安田記念を連覇し、G1・2勝馬となったヤマニンゼファーは、当初の目標どおり天皇賞・秋を目指すことになる。その前哨戦として毎日王冠(G2)に出走するも最後の長い東京の直線で失速し6着に敗北。

この敗北を明らかなスタミナ不足と判断した栗田調教師はスタミナ向上のために今までにない厳しい調教を行った。
これまで脚部不安から強めの調教を避けていたヤマニンゼファー。しかし、この厳しい調教はまさに盾取りに対する執念だった。

秋晴れの中で迎えた天皇賞・秋、かつてはマイルの皇帝だった父ニホンピロウイナーも挑んだ大一番。しかし、1つ下の世代に存在した皇帝シンボリルドルフと激突した最初で最後となった二帝会戦。
レース自体は伏兵ギャロップダイナの勝利で幕を閉じることになったが、ニホンピロウイナーは4着とシンボリルドルフの2着に及ばず、それはまさしく距離の壁であり、中長距離こそ王道に屈した瞬間だった。

ちなみに皇帝シンボリルドルフの代表する息子であるトウカイテイオーは残念ながら、骨折明けの調整不足のため、この天皇賞・秋を回避。2つの皇帝の代表産駒同士の激突は実現されなかった。
そんな父の無念を背負いレースに5番人気で挑むことになったヤマニンゼファー。

レースでは3番人気に推し上げられたツインターボが大逃げを打つ展開にヤマニンゼファーは無理せず3番手を追走。1番人気のライスシャワーや2番人気のナイスネイチャらが好位を追走し、最後の直線に入ると中団から抜け出してきた6番人気のセキテイリュウオーとヤマニンゼファーが残り300mにわたり壮絶な一騎打ちとなった。

そして、写真判定の末ハナ差でヤマニンゼファーが勝利。父が超えられなかった距離の壁を見事、超えた瞬間でもあった。

そよ風はターフを去る

天皇賞・秋を制したことでマイル・中距離G1と二階級制覇となり、次走のスプリンターズSを制し、前人未踏のスプリント・マイル・中距離の三階級制覇を目指すことになったヤマニンゼファー。

しかし、その夢を打ち砕いたのが希代のスプリンターであるサクラバクシンオーだった。
レースではニシノフラワーの猛追は凌いだものの、早めに抜け出していたサクラバクシンオーを捉えることができず2着。

この敗戦により、ヤマニンゼファーの三階級制覇は幻と消えた。
そして、ヤマニンゼファーはこのレースを最後に引退を表明。父ニホンピロウイナーが成し遂げられなかった天皇賞・秋を制し、安田記念連覇の偉業を成し得たマイルの王は、中距離こそ王道という概念を根底から覆し日本の競馬界に大きな爪痕を残した。
その馬名の如く、そよ風のように彼は静かにターフを去ったのだった。

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ニホンピロウイナー スティールハート Habitat
A.1.
ニホンピロエバート チャイナロック
ライトフレーム
ヤマニンポリシー Blushing Groom Red God
Runaway Bride
ヤマホウユウ ガーサント
ミスタルマエ

生涯戦績 20戦 8勝(8-5-2-5)
主な勝鞍 安田記念(2回)、天皇賞・秋

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