ウイニングチケット|歴代最強馬|名手を漢にした馬|名馬たちの記憶⑥

名馬たちの記憶
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ウイニングチケット
名手を漢にした馬

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ウイニングチケット 名手を漢にした馬

昭和の時代に柴田政人という義理と人情を重きにおいた名騎手をご存知だろうか。

元祖天才の福永洋一元騎手や世界の岡部と称された岡部幸雄元騎手と同期で騎手黄金世代の1人であり、数々のビックタイトルを手にした。

しかし、そんな名手も日本ダービーの称号だけは手にできず騎手生活も30年が経った。身体も悲鳴を上げ、調教師の道も見えてきた。このままダービージョッキーの称号を手にすることなく、終わってしまうのか……

そんな騎手生活晩年を迎えた柴田は、1頭の漆黒の馬体と出会う。
その競走馬こそ、ウイニングチケットである。日本競馬歴代の名騎手と呼ばれた柴田政人にダービージョッキーという称号をプレゼントするために生まれてきた馬ウイニングチケット。
今回は、義理と人情を大切にした熱き名騎手柴田政人を漢に導いたウイニングチケットの記憶を振り返りたい。

期待薄の馬

父は当時、輸入されたばかりの新種牡馬で1985年の凱旋門賞馬トニービン
曾祖母にスターロッチの血を持つ母はパワフルレディ。そして、母の父マルゼンスキーという血統。

なお、母系のスターロッチから繋がる日本有数の名牝系の1つである。
未知数だったが欧州チャンピオンとなった父と日本が誇るスターロッチの血統を持つ漆黒の小さな馬体は、1990年3月に藤原牧場にて産声を上げた。
馬格が父トニービンと似ていて顔付きは母系の曾祖父テスコボーイにそっくりと言われながら幼少期を順調に育ったウイニングチケットは、3歳(現2歳)の5月に栗東の名門 伊藤雄二厩舎に入厩する。

ちなみに馬主が命名した当たり馬券を直訳したウイニングチケット(勝利への切符)が馬名の由来である。
入厩当初、陣営はウイニングチケットよりも兄に重賞勝ちを持つ同じ3歳牡馬のニホンピロスコアー(父ゴライタス)に期待していたという。

そんな期待薄など知らないウイニングチケットは、秋の新馬戦にてデビューするも7番人気で5着とホロ苦いデビュー戦となった。

しかし、連闘で迎えた2戦目には初勝利を飾り良い意味で陣営を裏切った。ところがレース後に発症した蕁麻疹の影響で冬まで休養を余儀なくされる。

実はウイニングチケットは精神面で弱い馬だった。現役生活を引退するまで全14回出走しているが、そのうち4回はレース後に精神的ストレスから蕁麻疹を発症させるほどだった。
それでも一生に一度の大レース日本ダービーを勝ってしまうのだから、レースに出走すれば精神的ストレスに打ち勝つ潜在能力があったのであろう。

頭角を現す

休養を挟み12月初旬、1勝クラスの葉牡丹賞、暮れのホープフルS(当時はG1ではなくオープンクラス)を連勝。4戦3勝とし翌年のクラシック戦線の主役級へと一気に上り詰めた。

なお、この世代の牡馬クラシックは、後の皐月賞馬ナリタタイシンに菊花賞馬ビワハヤヒデ
この2頭にウイニングチケットを含めた世代三強、それぞれの頭文字を取ってBNW世代と呼ばれた。
そんなことも知らずにウイニングチケットは、年が明け3月に入り皐月賞(G1)の前哨戦となった弥生賞(G2)に出走する。

ここで先述した生涯のライバルとなる1頭であるナリタタイシンを退け重賞初制覇。しかし、レースを終えた柴田が「今日は85点、切れがひと息だった」など辛口なコメントを発したため、皐月賞に対する評価が急騰するのである。

初の3強対決

その皐月賞では、1番人気に推されたウイニングチケットとビワハヤヒデ、ナリタタイシンの三強が初めて激突。軍配は、剃刀のような切れ味を魅せたナリタタイシンに挙がる。

ここまで連対率パーフェクトのビワハヤヒデが、2着で連対率100%をキープ。直線失速したウイニングチケットは4着だった。

皐月賞敗退によりファンを失望させたかに見えた。

ところが、迎えた日本ダービー(G1)でも1番人気の支持を得た。それは、鞍上の柴田にダービー初制覇とウイニングチケットの勝利に競馬ファンが期待した数字が如実に表れたのかも知れない。

名手を漢にした馬

スタート直後、マルチマックス騎乗の南井克己騎手が落馬するという波乱の幕開けとなった第60回日本ダービー。
最後の直線、残り50m付近で柴田と同期で永遠のライバル岡部幸雄騎乗のビワハヤヒデが柴田のウイニングチケットに並んだ。

そして、後方から武豊騎乗のナリタタイシンも1馬身差に迫ってきた。ここで、ウイニングチケットは一世一代の二の脚を魅せる。まさに柴田政人を漢にするが如く――。

実況アナウンサーがウイニングチケットと叫んだ分だけ、ウイニングチケットは猛追してくるビワハヤヒデよりも前に前にと脚を繰り出すように見えた。

そして、最後はビワハヤヒデを半馬身差退けたところがゴール。

実に19回目の日本ダービー挑戦にして悲願の初制覇を果たした44歳の柴田は「世界のホースマンに第60回目の日本ダービーを勝った柴田ですと伝えたい」との勝利騎手インタビューは多くの競馬ファンに感動と涙を与えた。

ダービーだけに愛された馬

その後、夏の休養を経て牡馬クラシック最後の一冠である菊花賞(G1)を目指したウイニングチケットは、菊花賞トライアルレース京都新聞杯(G2)を辛勝。

そして、菊の舞台でBNWが三度顔を合わせることになった。しかし、結果はビワハヤヒデに5馬身差以上を開けられての3着。

結果的にBNWがそれぞれ冠を分け合う形で1993年のクラシック戦線は終了した。
翌年ライバルのビワハヤヒデが天皇賞・春(G1)と宝塚記念(G1)を制しG1・3勝目を飾るで一方のウイニングチケットは後手を踏む格好で重賞に善戦するも勝ちきれない日々が続いた。

そして、落馬事故により負傷していた柴田が28年の騎手生活を終えた。その約1ヵ月後、柴田の後を追うようにしてウイニングチケットも現役生活に別れを告げた。

それは、ちょうどナリタブライアンが三冠達成を果たした1994年の秋だった。

引退、そして後世まで

日本ダービー馬として第2の馬生に向かったウイニングチケットは、これといった後継馬を輩出することはできなかった。

しかし、2021年の大阪杯(G1)にて、曾孫のレイパパレ(父ディープインパクト)が勝利したことで母の母の父として僅かだが血を残している。

あれから約30年が経過したが現在もウイニングチケットは、90年代の日本ダービー馬で唯一生き残っている。今年で32歳となった今、曾孫たちの活躍を放牧地で見守っていることだろう。
ウイニングチケットが勝った日本ダービー当日、東京競馬場へ駆けつけた競馬ファンは16万人もいた。昨今のコロナ時代では考えられない数字である。

また、日本ダービーの売上545億は当時で過去最高売上となったことから如何にこのBNW世代にファンが多かったのか数字が物語っている。

柴田政人に日本ダービーを勝たせた馬ウイニングチケットは、今もなお人気が衰えることを知らない日本ダービー馬であることは間違いない。そして、この先も長寿を祈るばかりである。

トニービン カンパラ Kalamoun
State Pension
Severn Bridge Hornbeam
Priddy Fair
パワフルレディ マルゼンスキー Nijinsky
シル
ロッチテスコ テスコボーイ
スターロッチ

生涯戦績 14戦6勝(6-1-2-5)
主な勝鞍 日本ダービー


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