ホーリックス|歴代最強馬|2222の死闘を演じた名牝|名牝たちの記憶㉔

名牝たちの記憶
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ホーリックス
2222の死闘を演じた名牝

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ホーリックス 2222の死闘を演じた名牝

一昔と比べて、スピードを求め血を重ね続けた現代の競馬では、走破タイムが速くなっていることは明らかであるが、今から35年前の1989年のジャパンカップ(G1)でニュージーランドの競走馬ホーリックスが、2分22秒2という当時では、考えられない破格のタイムで勝利したのだ。

また、その時に一騎打ちとなった相手が、あのオグリキャップだったことから、今でも鮮明に覚えている方も多いだろう。もちろん、これは当時の世界レコードだった。

今回は、アイドルホースと死闘を演じ、当時の日本競馬に強烈なインパクトを与えたホーリックスについて振り返っていきたい。

マイナー血統

ホーリックスは、1983年にニュージーランドで生まれた芦毛の牝馬で、1989年のジャパンカップが行われた東京競馬場の芝2400mを2分22秒2で駆け抜けた女傑であり、間違いなく日本で最も有名なニュージーランド調教馬だろう。

しかし、血統面をみてみると、父は英国産馬のスリーレッグス。現役時代は、ジュライカップ(英G1)で2着など短距離戦線で活躍した。また、ホーリックス以外にも優秀な産駒が多く、2度もニュージーランドのリーディングサイアーになっているが、スリーレッグス自身は、ホーリックスの名誉を待たずに1985年に他界している。

また、母のモルトは不出走ながら、最優秀繁殖牝馬となった祖母から広がる牝系にはG1馬が多く、母の父はモストゥルーパーといった。ちなみに馬名は、母の麦芽からの連想とグラクソ・スミスクライン社が発売している、同名の麦芽飲料から取ったもの。

そんなホーリックスの血統背景的には、世界でもあまり馴染みがない。それは、オセアニアでの輸送技術が発達してシャトル種牡馬が盛んになるまで、欧米とかけ離れた血統が独自に発展を遂げていたからである。

そのため、ホーリックスの血統は、4代前まで世界的にも皆無な競走馬の名が連ね、5代前まで遡れば、ネアルコやハイペリオンといった世界的大種牡馬がみえてくる、いわゆるマイナー血統だった。

なお、ホーリックスの活躍と前後してきょうだい馬の何頭か日本に輸入されたが、1993年のナリタチカラが勝った札幌記念(当時はG3)で2着に入ったヒットザマーク以外は、競走でも繁殖でもホーリックスを超える馬は出ていない。

そんな厳しい状況下でありながらもホーリックスは、1989年のジャパンカップ出走のため、初来日することになったのである。

群雄割拠のジャパンカップ

1989年ジャパンカップ。単勝オッズは、長距離を得意としていたトップサンライズを除けば、ホーリックスは、海外馬の中でもっとも低評価となる9番人気だった。

というのも当時オセアニアは、一大馬産地大国でありながらも独自の発展を敷いてきたため、世界的にも競走馬の評価が低かった。それは、過去のジャパンカップをみてもオセアニア競走馬の最高着順が、1985年のザフィルバートの3着であることからも頷ける。

そんな低評価に加えて、7歳の芦毛の牝馬をみた“競馬の神様”大川慶次郎氏も「無理ですね」と言い切り、オグリキャップを管理していた瀬戸調教師は「この馬にだけは負けないな」と思ったほど、注目されていなかった。

ただ、それだからといって、日本馬がジャパンカップで活躍していたのかというと決してそうではない。

1985年に皇帝シンボリルドルフが勝利して以来、ジャパンカップで日本馬は、再び海外馬に勝てなくなっていた。最大のチャンスと思われた1988年も1番人気で目下8連勝中だったタマモクロスが惜しくもペイザバトラーの2着に敗れ、タマモクロスでさえ勝てないのかと日本の関係者たちは肩を落としたのである。

そして、迎えた1989年の日本競馬は、今年こそ栄冠を取り戻すとの思いからか、オグリキャップにスーパークリークイナリワンといった“平成三強“がジャパンカップに参戦を表明。

ただ、オグリキャップに関しては、1週前のマイルチャンピオンシップ(G1)から連闘となり、これには、陣営に対する非難が多くあったという。そんな中でも出走し、あれだけの死闘を演じたのだから、陣営からすれば、頭の下がる競走馬だったことに違いない。

なお、オグリキャップと同じくマイルチャンピオンシップからの連闘で挑んだ安田記念の覇者バンブーメモリーや宝塚記念(G1)2着馬のフレッシュボイス、1980年代後半のG1戦線から息の長い活躍を続けているランニングフリー、牝馬で唯一南関東三冠を達成したロジータ、目黒記念(G2)を制したキリパワーに平成三強を足した全8頭が日本馬として参戦することになった。

一方、海外からは、凱旋門賞(仏G1)の勝ち馬キャロルハウスにオイロパ賞の勝ち馬イブンベイ、ジョッキークラブ大賞の勝ち馬アサティス、ロワイヤルオーク賞の勝ち馬トップサンライズそして、当時の2400mワールドレコードホルダーである米国産のホークスターに前年の覇者ペイザバトラーも参戦を表明。

さらにオセアニアからは、当時のニュージーランド最強馬との呼び声高いボーンクラッシャーをDSドラフトクラシック(新G1)で破ったホーリックスを合わせると出走馬は全部で15頭となった。

ちなみにDBドラフトクラシックは、わずか2回限りで廃止となったため、前年もホーリックスが制していたので、このレースの勝ち馬はホーリックスだけとなる。

そんな中で迎えたレースでの単勝オッズは、1番人気がスーパークリークで4.6倍、2番人気は連闘の影響が懸念されたオグリキャップが5.3倍だった。そして、3番人気は世界レコードホルダーのホークスターが5.6倍と続き、7番人気だったキャロルハウスの8.9倍までが単勝1桁台とまさに、どれが勝ってもおかしくない群雄割拠なジャパンカップになることが予想されたのである。

2頭の芦毛馬の死闘

 レースは、年の瀬が押し迫る秋晴れの中、ゲートが開かれた。ホーリックスは、好スタートを切り、それを外からイブンベイが交わしていき、ホークスターがそれに続いたことで結局、ホーリックスは3番手に位置を取った。

その前方集団から少し離れてオグリキャップとスーパークリークが絶好の位置に付けた時、観衆は異変に気付いたのである。それは、先頭を進むイブンベイのペースだった。この時、イブンベイは大歓声に怯えていたらしく、逃げというよりは”暴走”に近い走りである。

それにより1800mおよび2200mの通過ラップが、当時の日本レコードを上回るという、信じられない超ハイペースになったのだ。

ちなみに2000m通過タイムは驚愕の1分58秒0――これは、サクラユタカオーが1986年の天皇賞・秋(G1)で打ち立てたレコードタイムの1分58秒3よりも0.3秒も速かった。

しかも天皇賞・秋が3つのコーナーに対し、ジャパンカップはコーナーが4つある。さらに、そのレコードは東京競馬場が改修されるまで1分58秒を切ることがなかったため、驚異的なハイペースとなったのは言うまでもないだろう。

そんな暴走モード状態のイブンベイとホークスターが併走しながら最終コーナーを回り、府中の長い直線に入ると、その背後からホーリックスが続いた。

そして、最後の直線でホーリックスが先に抜け出すと、残り400mを切ったところでホーリックスと同じ芦毛の馬が外から突っ込んで来る。そう、芦毛の怪物オグリキャップである。

ホーリックスの鞍上オサリバン騎手が必死の風車鞭を飛ばし、それに負けず鞭を打つ南井騎手とそれに応えようと豪脚を繰り出すオグリキャップ。

その白熱した2頭のマッチレースは、東京競馬場の大観衆が総立ちとなり、本来は中立であるべき実況アナウンサーまでも「オグリキャップ頑張れ!」と叫んでいた。

美しい夕日に照らされた芦毛の2頭。ホーリックスが前で粘り、オグリキャップが猛追する。その光景は、まるで前年の天皇賞・秋でみせたタマモクロスとオグリキャップを思い出させた。

そして、芦毛と芦毛の一騎打ちは、わずかにホーリックスが粘り切ったところでゴール板を迎えたのであった。

驚愕の2分22秒2!

見事、オセアニアの競走馬として史上初となるジャパンカップを制覇したホーリックス。しかし、ホーリックスは、ただ勝っただけではなく、勝ったタイムが凄かった。

それは驚愕の2分22秒2である。

もしかすると、当時の競馬ファンは、そのタイムを目にした時、自分の目を疑い、時計の故障かと思ったかも知れない。

それは、当時のレコードタイムと比較すれば、どれだけ凄いタイムだったのか、お分かりいただけるだろう。

・日本ダービー  2分26秒3(サクラチヨノオー1988年)
・オークス    2分28秒1(リニアクイン1977年)
・ジャパンカップ 2分24秒9(ルグロリュー1987年)

つまり、コースレコードタイムを2秒7も縮めたということになるのだ。また、このタイムの最も恐るべき点は、東京競馬場が改修されるまで更新されなかったというところである。

そして、この驚愕なワールドレコードタイムは、1999年にアルゼンチンで行われたカルロス・ペレグリーニ国際大賞(G1)でアシデロが2分21秒98で制覇するまで10年間も更新されず、また、東京2400mのコースレコードとしては、2005年にアルカセットがコンマ1秒を縮めるまで16年間も更新されなかった。

なお、現在のジャパンカップレコードは、2018年にアーモンドアイが記録した2分20秒6だが、現在と当時ではコースの構成が全く異なるため、一概にどちらが上とはいえないだろう。

ただ、当時のコース状態は映像を見ても分かる通り、芝は砂なのか?と思わせるほど、緑がなかった。
もし、何も知らない人が当時の映像をみると「当時のジャパンカップは、ダートでやってたんだ」と思われてもおかしくないくらいの馬場状態だったのである。

そのため、ホーリックスのレコードタイムが、如何に驚異的なタイムだったことはお分かりいただけるのではないだろうか。

このレースが凄かった理由

 さらにこのレース自体が、どれだけ凄かったのか。それは下位に入線した馬をみると分かりやすい。まず、大差で最下位――しんがり負けとなったロジータのタイムは2分26秒9である。

これは、前述したオークス馬リニアクインのレコードタイムを1.2秒も上回っている。さらに14着のキャロルハウスの走破タイムも2分24秒9は、これまでのジャパンカップレコードと同タイムとなる。

そして、13着だったバンブーメモリーが2分24秒2だった。そのため、出走馬15頭中13頭がレコードタイムを更新したという、とんでもない高速レースとなったのである。

その理由は、通常ハイペースな競馬の場合、後方の馬が先行する馬よりも脚を溜めやすくなるため、有利となるが、このレースはあまりにもハイペース過ぎたため追い込みの脚が効かず、道中6番手以下で掲示板に乗ったのは3着だったペイザバトラーのみとなるからである。

そう考えると、1989年のジャパンカップは勝ちタイムだけではなく、全てのタイムが、とんでもなく、35年が経った今でも伝説のレースの1つとして、語り継がれているのだと思う次第である。

その後のホーリックス 

伝説のジャパンカップを終え、改めてニュージーランドの英雄となったホーリックスは、帰国後も現役を続行し、1990年のコックスプレート(豪G1)で8着に敗れたのを機に現役を引退した。

引退後は、ニュージーランド国内のケンブリッジスタッドで繁殖牝馬となったホーリックスは、第4番仔が2000年のメルボルンカップ(豪G1)を制覇するなど繁殖牝馬としても成功し、その他にも優秀な産駒を多く送り出した。

また、2007年には、孫がオーストラリアンダービーを制覇するなど、牝系の祖としても成功を収めることとなる。そして、2010年には、ジャパンカップでの活躍からニュージーランド競馬の殿堂入りを果たし、2011年8月24日に28歳でこの世を去ったのである。

生涯戦績40戦17勝。うちG1を6勝と輝かしい戦績は、間違いなくニュージーランドだけではなく、日本においても名牝だったといっても過言ではないだろう。

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Three legs Petingo Petition
Alcazar
Teodora Hard Sauce
Tellastory
Malt Moss Trooper Levmoss
Forest Friend
Frill Agricola
Froth

生涯戦績 40戦17勝
主な勝鞍 ジャパンカップ(G1)他

 

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