メジロパーマー|歴代最強馬|乾坤一擲の逃げ馬|名馬たちの記憶㉚

名馬たちの記憶
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メジロパーマー
乾坤一擲の逃げ馬

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メジロパーマー  乾坤一擲の逃げ馬

“人気薄”という決して誉め言葉ではない追い風に意気揚々と先頭を走る姿は、同世代にして同門の僚馬メジロマックイーンメジロライアンといった名馬たちにはない異彩を放った個性派メジロパーマー。
同一年の宝塚記念(G1)と有馬記念(G1)で超人気薄ながら、逃げ切り勝ちを収め、日本競馬史にその名を刻んだ。

今回は、そんなメジロパーマーの記憶を振り返りたい。

メジロ由来の系譜

メジロイーグルは、400キロそこそこの馬体ながら、1978年の第45回日本ダービーで5着に逃げ粘るほど、牡馬3冠レース全てで善戦。”逃げ戦法”を得意とする馬だった。

また、母のメジロファンタジーは、現役時代、栗東の大久保正陽厩舎に所属して4戦1勝。大きな結果は残せなかったものの、その血統背景から名門メジロにあっても注目を集める馬だった。

そんな両親から1987年3月21日、北海道は伊達のメジロ牧場にメジロパーマーは生を受けた。
先述の通り、この年のメジロ牧場には、のちのメジロマックイーンやメジロライアンも生まれており、この2頭には「乗ってみて、背中の感じがいい」「きれいな走り方をする」など、高い評価が与えられた。
しかし、メジロパーマーに対しては「軽い性格、ちょろちょろ動いては他の馬にちょっかいを出していた」という印象だったそうで、それほど期待されていなかった。

ただ、メジロパーマーは、メジロ牧場で生まれた同世代の馬たちに比べ「前脚の膝と球節の中間の範囲」が最も大きかったのである。
これは丈夫さを意味するものだが、生まれながらにして、この前脚の太さが備わっていたメジロパーマー。
そこに父メジロイーグルから譲り受けた逃げ馬の才能と根性が、メジロパーマー自身の強さにつながっていくのである。

中団から後方一気

その後、順調に育成されたメジロパーマーは、母と同じく栗東の大久保正厩舎に入厩した。

函館でのデビュー戦は、1番人気ながらもゾウゲブネメガミの2着。
その後、2戦目の新馬戦も2着となるが、続く未勝利戦、コスモス賞(OP)と連勝。函館滞在で4戦2勝とし、栗東に帰厩した。

しかし、続く3歳限定のオープン戦に出走して2連続で着外となった後、暮れに骨折が判明。
休養中に年が明けて、4歳となった1990年6月に復帰するも古馬相手の条件戦とオープン競走の4戦は、全て中団から呆気なく敗退・・・・・・・・・・・・した。

とはいえ、メジロパーマーと言えば逃げ戦法である。だが、4歳までのメジロパーマーは逃げ馬ではなかったのだ。

「後から行って1つでも着順を上げた方がいいだろうって考えがありましたからね。まあなるべくなら、行かないで抑える競馬ってことでやってたんですけどね」と、管理した大久保正調教師がコメントしているように、この時までは追込に適性を見出していたのだった。

逃げという才能の開花も…

その後、初の重賞挑戦となった函館記念(G3)は、デビューしてから1年が経過していた。

「幹夫君(松永幹夫元騎手で現調教師)からね。これまで3、4回乗ってもらっているけど、後から行く状態から、夏の函館記念は、ハナに出した方がいいんじゃないかって。メジロイーグルっていうお父さんの血を引いてたんじゃないかって思いますね。かなり先行して持続性も持っていましたので、ただ、レースの流れによっては逃げ切れる可能性は秘めていたと思いますね」

大久保正調教師が示唆したように、このレースから逃げに転じたメジロパーマー。
レースでは、10番人気ながら、果敢に逃げ切りを図ったが、G1馬ラッキーゲランの7着。しかし、決して悪くない内容だった。

ただ、この後に再び骨折が判明し、半年の休養を余儀なくされる。その後、戦線に復帰はしたが、逃げては敗れる戦いを繰り返す。
そして、メジロパーマーの逃げ戦法が、最初にハマったのは、函館記念から6戦目にあたる十勝岳特別(現1勝クラス)だった。

ここでは、2着に大差勝ちを見せ、ようやく重賞制覇の機会が巡ってきたのは、18戦目となる次走の札幌記念(当時G3)だった。
果敢なく逃げ戦法を見せたメジロパーマーは、2着のモガミチャンピオンに半馬身差で勝利し、
念願の重賞制覇を達成する。

ところが、その後に出走したオープンクラス、重賞を善戦にも及ばない黒星が3つ続いた連敗街道だった。
こうして、
5歳の秋を迎え重賞制覇はあったものの21戦して4勝。この結果に迷った陣営は、なんと障害路線に活路を見出したのだった。

障害馬に転向

平地の重賞を7着に敗れてから1ヶ月後には、早くも障害競走デビューとなった。ところが、59キロを背負った障害未勝利戦をメジロパーマーは圧勝するのである。
続く2戦目は惜しくも2着に敗れたが、決して悲嘆する内容ではなく、障害転向は陣営の目論見通りだと思われた。

しかし、この障害2戦を経て、メジロパーマーは障害路線から再び平地競走に戻ることになるのである。
その理由を大久保調教師は「馬が障害を見ないで飛ぶもんだから…踏み切らずに、よく転ばないできたんですけどね。上がってくると同時に両膝が腫れあがるような打撲で、可哀そうなことをしたなっていうのが本心でした」と明かしている。

だが、障害戦の長い距離を走ったことで、さらに逃げ切る力を付けたのではないか――大久保調教師はそう振り返った。

そして、その見えない可能性に加え、平地への復帰2戦目にメジロパーマーは生涯の相棒を手にすることとなる。

相棒

メジロパーマーといえば、山田泰誠騎手を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。
このコンビが初めて結成となったのは、メジロパーマーが6歳で出走した天皇賞・春(G1)だった。

「先生からは気楽に逃げてくれと。それだけですね。ちょっと頭が高くて、乗りにくいところがありましたけど」
そう山田泰騎手がコメントした通り、春の古馬最強馬決定戦では果敢に逃げを披露した。

「ひょっとしたら、山田君がパーマーに合うんじゃないかなって。今振り返ってみれば、インスピレーションがあったのかな。天皇賞で乗ってもらって、逃げでいい配分で喩え7着でも馬としてはいいレースっぷりをしてくれましたよ」と大久保調教師は、コンビ結成に至った経緯を振り返っている。
しかし、結果は同期馬のメジロマックイーンが連覇を達成した中で7着だったが、師のいうように悪い内容ではなかった。
そんなメジロパーマーと山田泰騎手のコンビは、早くも結成2戦目の新潟大賞典(G3)で相性抜群の走りをみせた。
結果的には、2着のタニノボレロに4馬身差、1番人気だったシャコーグレイドには8馬身差の独走劇を披露。コンビで上げた初勝利が重賞初制覇となった。

ここで山田泰騎手はメジロパーマーに対する騎乗のコツを掴んだという。
そして、師の目論見通り、障害経験が功を奏したのか。その逃げ脚には磨きがかかっていたのである。

乾坤一擲の逃げ馬

そのままの勢いで臨んだのが、春のグランプリ宝塚記念(G1)だった。
ただ、レース直前に僚友のメジロマックイーンが出走を回避したことで一気に本命不在の混戦ムードが漂った。そんな中、メジロパーマーは9番人気という伏兵馬としてスタートの時を迎えた。

レースは、良馬場でありながらも不思議とこの年の阪神競馬場の馬場は、特殊な状態でとにかく”前に行ったもん勝ち”的な傾向が見られた。
しかし、馬場がどうであれ、逃げる戦法に変わりないメジロパーマーと山田泰騎手には、展開も作戦もどこかに吹っ飛んでいき、ただただ、無我夢中で追った感じだった。

蓋を開けてみれば、2着のカミノクレッセに3馬身差を付けての圧勝。
これが、メジロパーマーと山田泰騎手にとって嬉しいビッグタイトル獲得となった。

ちなみにメジロマックイーン回避に伴い1番人気に押し上げられたカミノクレッセは、天皇賞・春、安田記念、そして、宝塚記念と3連続G1で2着となった。その後、G1を勝つことはなかったが、種牡馬入りしている。

これは遅咲きの能力開花なのか。
しかも障害から戻ってきた異例の競走馬が平地のG1を勝利する前代未聞の快挙。

しかし、夏の休養明け以降、京都大賞典(G2)、天皇賞・秋(G1)と再び立て続けに大惨敗を喫する。

メジロパーマーは強いのか、弱いのか――この結果に宝塚記念は、他馬の油断に漬け込んだフロックだったと言われても仕方ない惨敗劇だった。

史上5頭目の同一年グランプリ連覇

その後、メジロパーマーが向かったのは、暮れのグランプリ有馬記念。

前走の天皇賞・秋(G1)では、しんがり負けだったこともあって15番人気。下から数えて2番目のブービー人気だったことは、春のグランプリホースが軽く見られていたのだ。
なお、1番人気は、この年のジャパンC(G1)を制したトウカイテイオーだった。

レース前、山田泰騎手はメジロパーマーに対して「パーマーの場合は、パーマーのペースで馬任せなんですけど、ちょっとだけ折り合いつけてなるべくスローペースに落とすんですよ。するとしまいまでしっかり逃げていい成績が出るんですけどね」と語った通り、またも大一番でメジロパーマーと山田泰騎手は世間に快挙を見せつけるのである。

果敢に逃げ切りを図る中、ゴール前では、レガシーワールドと並んでゴールイン。ナイスネイチャもしぶとく3着に突っ込んでくる波乱の幕切れ。結果、ハナ差での勝利だった。
トウカイテイオー、ライスシャワーといった歴代最強馬たちもメジロパーマーの逃げ脚を捕まえることはできなかった。

こうして、昨年のダイユウサクに続いて、この年も15番人気メジロパーマー勝利で波乱となった有馬記念。山田泰騎手の興奮は夜まで覚めなかったという。

最後まで魅せた根性の逃走劇

同世代で同門のメジロマックイーンもメジロライアンも届かなかった有馬記念のタイトルを手に入れリュウフォーレルシンザンスピードシンボリイナリワンに続いて史上5頭目となる同一年春秋のグランプリ制覇を果たしたメジロパーマー。
余談だが、この快挙は7年後に”不死鳥たる怪物”グラスワンダーが達成している。

メジロパーマーの名はこうして真の一流馬のリストに加えられた。
紆余曲折の果てに父譲りの逃げ脚を花開かせた生きざまは感動的であり痛快でもあった。

そんなメジロパーマーは、年が明け7歳となっても現役続行し、最後まで”逃げ”に拘り続けた。

そして、年明け初戦となった阪神大賞典(G2)では、タケノベルベットとナイスネイチャに追いつかれるも再び伸びを見せた。一旦は交わされかけての二の脚、三の脚を使い、グランプリホースの貫禄を見せつけるのである。

しかし、この阪神大賞典勝利がメジロパーマー最後の勝利となった。その後、宝塚記念、有馬記念などの重賞を7戦する全て惨敗。

それでも逃げ馬メジロパーマーは、最強の相棒とともに忘れたころにやってきてファンに強烈な印象を残してきたが、年が明け8歳となっての日経新春杯(G2)2着を最後に長い競走生活にピリオドを打った。

「いや、もう僕の全てですよ。今、僕がこんないるのはメジロパーマーのおかげですからね。パーマーがいなかったら、もしかしたら止めているかも知れませんから…」

メジロパーマー引退後、相棒は静かにそう語った。その相棒も約10年後には鞭を置き、今では調教助手として活路を見出している。

そんな相棒とともに見せたメジロパーマーの走りは、まさに乾坤一擲そのものだったに違いない。

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メジロイーグル メジロサンマン Charlottesville
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メジロファンタジー ゲイメセン Vaguely Noble
Gay Missile
プリンセスリファード Lyphard
ノーラック

生涯戦績 38戦 9勝(9-5-2-22)
主な勝鞍 有馬記念、宝塚記念

※記事内の馬齢表記は、当時のまま現表記+1としている。

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