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名馬たちの記憶
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レガシーワールド
名調教師の遺産

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レガシーワールド  名調教師の遺産

同世代に生まれ、僚馬となったミホノブルボンが光り輝いた存在だとすれば、彼は泥の中から這い上がった存在ともいえよう。
その存在は、やがて世界の強豪馬たちとひしめき合うまでとなり、ついには、日本調教の騸馬として初めてのG1制覇とともに歴代最強馬の証を手にする。

その名は、レガシーワールドといった。

今回は、名調教師・戸山為夫氏の遺産ともいうべき、レガシーワールドの記憶について振り返ってみたい。

気性難ゆえに…

父は史上初の牝馬三冠に輝いたメジロラモーヌの父としても知られているモガミ。競走馬としては大きな実績を残せなかったが、父が名種牡馬リファールだったため、種牡馬入りし大成した。
母はドンナリディアで母の父ジムフレンチは日本ダービー馬バンブーアトラスを輩出している。

そんな日本でも父系から活躍馬を輩出している血統を持ったレガシーワールドは、1989年4月23日に北海道は静内町へいはた牧場で誕生した。

幼駒時代のレガシーワールドを見た戸山為夫調教師と森秀行調教師(当時は調教助手)は「これは走る!」と大絶賛したほどの馬だった。
密かな期待をかけられてるとも知らず、優雅な馬体へと成長したレガシーワールドは、その戸山調教師の元へ。
入厩後、厩舎特有のスパルタン調教が施され、満を持して1991年8月に函館にてデビューする。

しかし、才能を発揮できないほどの物凄い気性難でろくにレースも出来ぬまま4着に敗退。それからも同様に気性難を見せ、4連敗したのち骨折。休養を余儀なくされた。

素質を持っていても気性が激しいゆえに力を発揮できない――そこで待っていたのは、激しい気性を和らげるため去勢という奥の手だった。

半年が経ち、それが功を奏したのか、気性的にも少しは改善が見られ、徐々に本来の能力が花開いていくと思われた復帰後の初戦。
ところが、いざターフに出ると鞍上の小谷内秀夫騎手を振り落とし、空馬で爆走した結果、競走除外となった。 気性難はあまり改善されてなかったのである。

気性難改善策

この結果を受けた戸山調教師は、1992年7月の4歳未勝利戦から2カ月足らずで5レースを消化させた。
それはまるで「暴れるほど力が有り余っているならレースだ!その中で競馬を覚えろ!」と言わんばかりの連続出走であった。

しかし、レガシーワールドの旺盛な生命力はそれを苦にするどころか逆に糧とし、夏の福島・北海道開催では、これまでにない活躍を見せるのである。5戦して3勝、古馬オープンでも互角に戦えるまでに成長したのだった。
それは、クラシックの夢を引き換えにした去勢という決断が、長い休養後のスパルタ調教が功を奏したのだ。

それから、ようやく掴んだ重賞初制覇のチャンスが巡ってきた。菊花賞トライアル・セントライト記念(G2)である。
そこには、菊花賞(G1)に向けて始動した、のちの歴代最強馬の1頭であり最強のステイヤーだったライスシャワーも参戦。
ただ、勝っても負けてもレガシーワールドは、騙馬ゆえに菊花賞の出走権利は与えられない。そう考えると、他の馬よりも気楽だったのかも知れない。
その気楽さが逆に良かったのか、レースではライスシャワーをクビ差で撃破する強さを見せるのである。

去勢という決断と確かな成長力の歯車がかみ合った結果の快進撃で重賞初制覇。
そして、同期の精鋭たちが菊花賞に向かう一方でレガシーワールドは我が道を突き進むのである。

世界の強豪との一戦、そして…

セントライト記念を勝利した後、東京・京都でのオープン戦を連勝し、初のG1挑戦となるジャパンC(G1)に駒を進めたレガシーワールド。
しかし、上位人気は、ニュージーランドの強豪ナチュラリズム、この年の英・愛オークス(G1)を制したユーザーフレンドリーに同じくこの年のイギリスダービー(英G1)を勝ったドクターデヴィアスといった世界の名馬たちの影に隠れる格好で10番人気の低評価。だが、レースでは、それを跳ね除ける形で4着と好走を見せた。
ちなみに世界の強豪馬たちを抑えて勝利したのは、トウカイテイオーである。

この好走はもう、ただの重賞馬ではなかった。そして、名調教師の相馬眼も間違ってはいなかった。ただし、気性難ゆえに下した決断が彼の血を残すことはできない部分は残念であるが、それでも人々の記憶には残すことができる。

そんな思いを乗せて向かった先は、暮れの大一番、有馬記念(G1)。
ここでもトウカイテイオーやライスシャワー、ナイスネイチャといった当時の歴代最強馬たちが集結。
そして、何と言っても春のグランプリホース、メジロパーマーと果敢に逃げ争いを演じたダイタクヘリオスとのデッドヒートが繰り広げられる中、レガシーワールドは先頭集団に待機する形で最終コーナーを迎えた。
先にバテたダイタクヘリオスを尻目に人気薄だったメジロパーマーの再びの激走にゴール手前で追撃したレガシーワールド。
場内は、ペースを狂わせられた人気馬たちが後方で苦しむ中、前ではレガシーワールドとメジロパーマーの一騎打ち状態に騒然となった。そして、最後はこの2頭が並んだところでゴールだった。

惜しくもハナ差の2着に敗れはしたものの、G1での好走は、間違いなく成長の現れだったといえよう。
ところが、年が明けてのアメリカジョッキーC(G2)でホワイトストーンの2着に入ったのち、再びの怪我により長期休養を余儀なくされ、完全復活には、約半年の時間を要したのである。

名調教師の遺産

それから、骨折が完治し復帰初戦となった10月の京都大賞典(G2)では、当時の現役最強馬メジロマックイーンを相手に2着と善戦した。
続く、2度目の檜舞台となったジャパンCには、故障したメジロマックイーンに代わって、この年の日本ダービー(G1)を勝ったウイニングチケットとともに日本代表馬として参戦することが決まった。
しかし、この年の凱旋門賞(仏G1)を制した牝馬のアーバンシー(のちに世界的大種牡馬となったシーザスターズやガリレオを輩出する歴史的名牝)や米国ブリーダーズC(米G1)の勝ち馬コタシャーンが参戦するなど、前年4着のレガシーワールドが6番人気に甘んじていたとしても無理のない顔ぶれだった。

ところが――

レースでは終始、逃げ切りを図るメジロパーマーを見る形で2番手から追走するレガシーワールド。最後の直線では、失速するメジロパーマーを横目に得意の先行策から抜け出しを図った。追ってくるのは、コタシャーンやウイニングチケットといった上位人気馬。
しかし、息の長い末脚を繰り出し、最後はコタシャーンを1馬身1/4差で抑えてのゴール。

生涯2つ目の重賞タイトルが国際G1という快挙だった。
この秋からコンビを組んだベテラン河内洋騎手も舌を巻くほどの強さをみせ、レガシーワールドは日本競馬史に残る歴代最強馬の頂点に立った。
欧米の強豪が必勝を期して乗り込んできたグローバルな舞台で生涯唯一の栄光を手にしたレガシーワールド。早くから騙馬となった彼にしてみれば、これ以上の檜舞台は他になかった。

ただ、残念なのは、その場に戸山調教師の姿はなかったことだ。師は前年から患っていた食道がんのため、すでに他界していたのである。
もし、ここまでに成長したレガシーワールドを見ることが可能だったなら、戸山調教師は、どういった言葉を述べたであろうか…そう思うと心痛しかない。

余生を故郷で

その後、有馬記念でトウカイテイオー奇跡の復活を見届ける5着に終わると、脚部不安により2年近くの休養を余儀なくされた。
しかし、復帰後の戦いぶりは、かつての世界の強豪を撃破した姿はなく、まるで魂の抜け殻のような不甲斐なさが続いた。

それは、まさにジャパンCで燃え尽きたかのようであった。
どんなに走っても往年の輝きは戻らず、最後は8歳となった宝塚記念(G1)で14連敗目を喫したところで競走生活にピリオドが打たれた。

種牡馬としての道が閉ざされた騙馬だが、世界の強豪を撃破した名馬には変わりない。
その後は、生まれ故郷のへいはた牧場に戻り、穏やかな余生を送り、2021年8月18日に老衰により死去。32歳の大往生だった。

世界を相手に激走したレガシーワールドのあの日の輝きは、血を残せなかった分だけ人々の記憶の中に残り続けるだろう。
そして、今も天国で我が道を走り続けているに違いない。

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モガミ Lyphard Northern Dancer
Goofed
ノーラック Lucky Debonair
No Teasing
ドンナリディア ジムフレンチ Graustark
Dinner Partner
ダイゴハマイサミ チャイナロック
ハマイサミ

生涯戦績 32戦 7勝(7-5-2-18)
主な勝鞍 ジャパンC

※記事内の馬齢表記は、当時のまま現表記+1としている。

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