ライスシャワー|歴代最強馬|青嶺の魂|名馬たちの記憶⑧

名馬たちの記憶
jra-van

ライスシャワー
青嶺の魂

※本ページはプロモーションが含まれています。

青嶺の魂ライスシャワー

この馬に関わる全ての人々が幸せになるように――

かつて、そう願いを込められ命名された競走馬がいた。
しかし、幸せにするどころか競馬ファンの望む光景を2度も破る形で付けられた異名は”関東の黒い刺客”

ただ、間違いなく彼が悪いわけではない。ただ、勝った彼が強かっただけなのだ。

長い間、競馬ファンからは関東の黒い刺客と揶揄されながらも走り続け、低迷期を経た今度は競馬ファンから愛される存在となった瞬間、淀のターフで散ってしまう。

彼の名はライスシャワー。

今回は認められなくとも努力し続ければ、いつかは認められると教えてくれた悲劇の名馬ライスシャワーの記憶を振り返りたい。

小さいが可能性を秘めた馬

父は米国で生まれ仏国で競争生活を送ったリアルシャダイ。種牡馬として日本リーディングサイアーに輝くなど主に長距離を得意とした産駒を輩出した名種牡馬である。

母はマルゼンスキー産駒のライラックポイント。中央競馬で39戦4勝の戦績を残して繁殖牝馬となった。1989年3月5日にライラックポイントの4番仔として誕生したライスシャワー。

幼駒時代から馬体は小さいが将来はダービー馬も夢ではないと言われるほどの身体能力を持っっていた。とにかく馬体が柔らかく雲の上に乗っているかのようと例えられるほどだ。
また、性格的にも大人しく馴致に全く手が掛からなかった馬でもあった。

そんな優等生とも言うべき、幼いライスシャワーは3歳(現2歳)となり母と同じ美浦の飯塚厩舎に入厩することとなる。

世代最強馬との出会い

入厩後、早くも7月にデビューする予定だったが熱発のため8月にデビューが遅れた。それでもデビュー戦をあっさりと勝利し、大物の片鱗を見せるのである。

2戦目で早速の初重賞挑戦となった新潟3歳S(G3)。
しかし、ここでは出遅れからの馬群内に包まれて11着。その後、格上挑戦となった芙蓉S(OP)で難なく勝利。これで3戦2勝とした。

幼駒の頃に期待されたダービー馬も夢ではないが少し現実味を帯びたと思われたが、ここで競争後の骨折が判明。全治3ヵ月と診断された。

骨折療養を経て4歳(現3歳)となったライスシャワーは、翌年の3月に皐月賞トライアル、スプリングS(G2)に出走を復帰戦とした。

しかし、ここには世代最強と言われた坂路調教の申し子ミホノブルボンが出走。そんな復帰戦の結果は、勝ったミホノブルボンが2着に7馬身差を付けての圧勝劇を4番手から見る格好となった。

蛇足だが、このレースにはのちの短距離最強馬との呼び声が高いサクラバクシンオーも出走していたが、12着と大敗し、このレースを機に短距離路線へと変更している。

そして、次走の皐月賞に照準を合わせたライスシャワーに生涯のパート―ナーが初騎乗することになった。そう、的場均騎手である。
この先、ライスシャワーには最期となったレースまでの21戦(1戦を除く)全てを的場騎手が騎乗することになる。

少し話は逸れるが、1982年のオークス(G1)にて母ライラックポイントは15番人気で出走し17着だった。
この時の鞍上は的場均騎手。
次走の皐月賞からライスシャワーに的場騎手が騎乗するとあって母と息子の馬主・調教師・騎手の全てが同じ。これはまさしく競馬のロマンと運命を感じるものであった。

ダービー馬も夢ではなかった

皐月賞には11番人気で出走したライスシャワー。結果は人気よりも少し上の8着。遥か彼方に1冠目を奪取したミホノブルボンがいた。続く日本ダービー(G1)のトライアルレースNHK杯(G2)に出走したが、ここでも9番人気で8着と苦しい戦いが続いた。

そして、迎えた一生に一度の晴れ舞台、日本ダービー。

幼駒の頃に期待された通り、土俵に上がることができた。それだけでも立派なことである。
しかし、出走するからには全てのホースマンの憧れであるダービーを勝ちたいのは当たり前であろう。だが、最終オッズは18頭中16番人気。もちろん、断然の1番人気は皐月賞馬ミホノブルボンだった。

レースは、逃げて勝つ戦法を取るミホノブルボンがこれまでと同様、逃げ切る態勢となる。その2番手に16番人気のライスシャワーがピッタリマークする形となった。
迎えた最後の直線では、ミホノブルボンとの差を縮めることはできなかったが後方から追い込んできたマヤノペトリュースとの接戦を制し日本ダービー2着という勲章を手に入れた。

これで無敗の二冠馬となったミホノブルボンに対して競馬ファンが期待するのは1985年のシンボリルドルフ以来、無敗の三冠馬誕生である。

しかし、レースを終えた的場騎手は、「ライスシャワーで三冠最後の菊花賞で何とかミホノブルボンにひと泡吹かるつもりで立ち向かっていく」と静かに闘志を燃え上がらせていた。

ファンを裏切る形に

日本ダービー2着後、夏の休養を経て9月のセントライト記念(G2)に出走したライスシャワーは、先行したレガシーワールドを捕らえ切れず、ここでも2着に甘んじた。

なお、このレースには的場騎手の代役として田中勝春騎手が騎乗した。
的場騎手に戻った次走、菊花賞トライアル京都新聞杯(G2)では、無敗の二冠馬ミホノブルボンとの4度目の対決となった。
しかし、ここでもミホノブルボンに苦汁を飲まされての2着。勝ったミホノブルボンは無敗のまま三冠良好視界よしとなった。

そして、迎えた運命の菊花賞(G1)である。

京都競馬場に駆けつけた大勢のファンは無敗の三冠馬誕生を期待していた。だが、その期待を裏切るように最後の直線で長丁場を苦しむミホノブルボンに対しステイヤー血統を持つライスシャワーが横目で抜き去り優勝。

重賞初制覇が菊花賞となった瞬間だった。
また、走破タイムは当時の3000m日本レコードだった。通常なら大歓声が上がるはずのレース後だったが、この時ばかりは場内が静まり返り、拍手もなく今にもブーイングが起きそうな雰囲気だった。

競馬ファンが求めた形を切り裂くような結果を演出したライスシャワー。
結婚式で見られるライスシャワーとは新郎新婦にとって子宝に恵まれるよう、そして食べ物に困らないようにと願いが込められて行われるもの。

しかし、この時ばかりは、そのライスシャワーが祝福されない形となってしまったのは、勝ったライスシャワーにとっても甚だしかっただろう。

関東の黒い刺客

菊花賞後は、暮れの有馬記念(G1)にて、2番人気だったがスパートが遅れてしまい8着と惨敗しシーズンを終えた。

古馬となって迎えた初戦は目黒記念(G2)。ここでは負担重量が過去最高の59kgが影響したのか、マチカネタンホイザの2着に敗れる。続く、日経賞(G2)では初の1番人気に支持され自身4勝目となる勝利を挙げた。

そして、次走は当初からの大目標であった天皇賞・春(G1)である。
ここには、”史上初の同レース3連覇”がかかる最強ステイヤーことメジロマックイーンが出走。絶対王者に勝つためには極限の仕上げしかないと調教師は限界まで馬体を絞り込む調教を行った。
迎えたレース当日は馬体重が前走より-12kg。研ぎ澄まされた鋼のような馬体でパドックを周回するライスシャワー。それでもファンは圧倒的1番人気に支持したメジロマックイーンの三連覇に期待したのであった。

しかし、レースでは菊花賞で見せたミホノブルボンを横目に軽々と差し切った脚が再び炸裂。
最後の直線ではメジロマックイーンを置いていくかのように差し切り2馬身半差の圧勝。これでメジロマックイーンの三連覇を阻止。併せて鞍上の武豊騎手が挑んだ同レース五連覇(1989年イナリワン→1990年スーパークリーク→1991年メジロマックイーン→1992年メジロマックイーン)も阻止する格好となった。

こうして、2度も競馬ファンを裏切る形で勝利したライスシャワーは、『関東の黒い刺客』という異名が付けられることになったのである。

刺客からの転落

現役最強馬メジロマックイーンを破り、ライスシャワーの時代到来かと思われた。
しかし、ここからライスシャワーは勝てなくなってしまう。

極限まで仕上げた馬体は鋼と言われたが、もう錆びついてしまったのか――。

天皇賞・春以降の年内で重賞4連敗。
年明け6歳(現5歳)となっても京都記念(G2)、日経賞と連敗が続き、挙句の果てには2度目の骨折にて天皇賞・春連覇の夢は出走することなく消え去った。

暮れの有馬記念には、何とか間に合った形で出走するもナリタブライアンの3着だった。
菊花賞、天皇賞・春とG1を2勝しているのも忘れられたくらいの低迷が続いたライスシャワー。
このまま引退すると種牡馬としての価値も上がらないまま。そう考えた調教師は7歳(現6歳)となったライスシャワーの現役続行を決める。

もう1度大きな花を咲かせてやりたい。そうすれば、種牡馬としての価値も再燃するだろうと見込んだ結果だった。

ミホノブルボン、メジロマックイーンといった時代のヒーローを実力で破りながらも刺客と呼ばれたライスシャワー。敗北が続く刺客に対してこの時ばかりは競馬ファンの心も復活を待ち望んでいた。

祝福の復活

年が明け京都記念と日経賞ともに1番人気で出走するも競馬ファンの期待を裏切り格好で両レースとも6着に沈んだ。

「ライスシャワーはもう終わった」と言われる中で向かった次走は、2年前に制した天皇賞・春。
ここでは大本命になるはずだった前年の三冠馬ナリタブライアンが怪我のため出走を断念したため、G1未勝利のエアダブリンが1番人気に支持されるほど本命不在の混戦ムードが漂った。

G1・2勝馬でありながら、終わったと見られたライスシャワーは4番手まで評価を落としていた。
しかし、レースでは3コーナーの下り坂でスパート。一気に先頭に立って逃げ切り態勢を計った。

2年振りとなったライスシャワーの激走とも言うべき本気の走り・・・・・に場内から大歓声が響き渡った。最後は大外からステージチャンプがとんでもない末脚で飛んできたが、それをハナ差で破り約2年振りの勝利がレース出走機会という文言を付け加えると天皇賞・春連覇。見事G1・3勝目を飾った。

そして、淀の長距離G1・3勝という輝かしい戦績は淀のステイヤーとしての名を確立させたのも、この時である。
これまで刺客と呼ばれ祝福されなかったライスシャワーが初めて多くの競馬ファンに祝福され馬名の由来通りライスシャワーに関わった多くの関係者が祝福の時を迎えた。
しかし、この祝福の時間はあまりにも短く悲しすぎる結末が待っていることをこの時、いったい誰が想像しただろうか。

淀の悲劇

正直、ここから先を綴るのは辛いが本音である。
それほど、この先ライスシャワーという名馬に待ち受けていたものは悲しい現実であった。しかし、これも彼が残した紛れもない事実という記憶を忘れないため綴りたいと思う。
宝塚記念でファン投票1位を獲得。

天皇賞・春からの疲労回復がままならない中、この年が阪神大震災の影響で阪神競馬場開催ではなく京都競馬場での代替開催となったのも運命なのだろうか。陣営は、この年の宝塚記念(G1)が京都開催のため出走に踏み出た。

そして、淀の第3コーナーで……あの悲劇が待ち受けていたのである。

競走馬の種付シーズンは春先に行われるため、仮にライスシャワーが2度目の天皇賞・春を制した後、引退、種牡馬入りとなっても来春まで種付はできない。

そう考えると宝塚記念に出走したことも頷けるが、それでもあの悲劇がなければ、ライスシャワーにとって第2馬生が華々しいものになっていただろうと悔やんでも悔やみきれないのは、いち競馬ファンとして私だけではないだろう。

本来なら祝福されるはずが刺客やヒール役と呼ばれ、それでも走り続けた姿にファンはいつしか応援する形となり真の祝福を得た矢先の事故。

淀を愛し、淀に散った、淀のステイヤーがこの世を去ってから二十七星霜――。

未だ競馬ファンに愛され続けるライスシャワー。きっと、青嶺の魂となった今も天国から淀のターフを見守り、あの世で鋼の馬体を揺らしながら長い距離を疾走しているに違いない。

リアルシャダイ Roberto Hail to Reason
Bramalea
Desert Vixen In Reality
Desert
ライラックポイント マルゼンスキー Nijinsky
シル
クリカツラ ティエポロ
クリノホシ

生涯戦績 25戦 6勝(6-5-2-12)
主な勝鞍 菊花賞、天皇賞・春(2回)


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