ミホノブルボン
栗毛の超特急
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ミホノブルボン 栗毛の超特急
ただ、やみくもに馬を鍛えて強くなるなら、誰もがそうするだろう。
しかし、馬は生き物である。無理をすれば、故障するか、あるいは走る気をなくす馬もいるかも知れない。
今から約30年前――それを耐え抜いた馬がいた。それを見抜いた調教師もいた。この2つがマッチしたからこそ、歴代最強馬として名を残したことは間違いない。
その馬はミホノブルボンといった。
今回は、”鍛えに鍛え抜かれた”中で幾多の大レースを制し、筋肉の鎧を身に纏ったミホノブルボンの記憶に迫りたい。
象のような幼駒と坂路
父のマグニチュードは、凱旋門賞(仏G1)など欧州のレースを席巻したミルリーフと英国の1000ギニー(英G1)と英国オークス(英G1)を勝ったアルテッスロワイアルの間に生まれた掛け値なしの一流血統。
そんな父マグニチュードの配合相手は現役時代、漆黒に輝く青毛の馬体を誇り、公営・南関東で活躍したカツミエコー。
その第1仔として、ミホノブルボンは、父母とは異なる栗毛の馬体として1989年4月25日に北海道門別町の原口牧場で産声を上げた。
その大きな馬体とおっとりした性格から、牧場では「象みたいだ」と言われていた。
時を同じくして、栗東トレーニングセンターには、坂路コースが設立された。坂路コースとは直線の坂道で、地面にはウッドチップが敷かれた新しい調教設備だ。
当時、関西の名調教師だった戸山為夫調教師は、ハードトレーニングを中心とした徹底的に馬を鍛え上げる独自の状況はスパルタと評されており、その信念は「鍛えて馬は強くなる」だった。
そんな戸山調教師のもと、大柄な馬体で落ち着いた雰囲気のミホノブルボンが入厩する。戸山調教師はミホノブルボンを見た瞬間「やっと自分の考えを実証する馬に巡り合えた」と期待を寄せたという。
1991年の春、ミホノブルボンは栗東の戸山厩舎に入厩。その直後から、坂路調教で徹底的に鍛えられた。
それは、通常なら3本でも走ることすら厳しい坂路をミホノブルボンは4本も熟すほどである。
ただ、ミホノブルボンには、他馬と違って能力というべき素質があった。それは、食事の量の多さである。いわゆる大食漢だ。
特に食事に対する執着が強かったようで食事の邪魔をされることを何よりも嫌がった。厩務員によれば「食事中のミホノブルボンに接するのは恐怖だった」という。
そんなスパルタ調教の成果もあってか、ミホノブルボンの馬体は、成長とともに筋肉隆々と変わっていく。
そして、猛暑の中、坂路で追い切りを行った際、オープンクラスの古馬よりも速いタイムで駆け抜けるミホノブルボンを見た戸山調教師は、驚きと興奮を抑えきれず、思わず大声で叫んでしまったと後に語っている。
衝撃のデビュー戦
1991年9月7日、中京競馬場の芝1000mの新馬戦にミホノブルボンはデビューした。鞍上には障害競走をメインに乗っていた小島貞博騎手が抜擢された。
小島貞騎手は、戸山厩舎の専属騎手だったが、これまで目立った活躍はなかった。
一方のミホノブルボンは、デビュー前から既に調教タイム等で注目を浴びており、単勝1.4倍という圧倒的な1番人気だった。
ところが、レースでは、大きな出遅れをみせるのである。これは1000mという距離を考えると通常の馬なら致命的だろう。
しかし、ミホノブルボンは最後の短い直線で追い込みを計ると残り50mで先頭に立ち、最終的には2着に1馬身と1/4差をつけ、58.1秒のレコードタイムで勝利する。しかも上がり3ハロン33.1秒ととんでもないタイムを叩き出したのだ。
一気に2歳の頂点へ
続く2戦目の芝1600m条件戦も2着馬に6馬身差を付けての圧勝劇をみせた。ただ、持ち前のスピードに特化した血統は、この先スタミナやパワーが全くないと心配された。
しかし、名調教師と呼ばれる戸山調教師もそのことは十分に理解しており、「ミホノブルボンの脚質は典型的なスプリンターだが、スピードは天性のもの、スタミナはトレーニングによって何とか克服できる」と語っている。
その後、世代王者を決める朝日杯3歳S(G1)(現:朝日杯フューチュリティS)に駒を進めたミホノブルボン。ここでも単勝1.5倍と圧倒的な1番人気に支持された。
レースでは、逃げるマイネルアーサーに対し、ミホノブルボンは折り合いを欠いたが、それでも最後の直線で先頭に立つと追い込んでくるヤマニンミラクルをハナ差で交わし、3戦3勝でG1初制覇。
これは小島貞騎手にとっても平地G1初勝利となり、戸山調教師にとってもグレード制導入後のG1初勝利となった。
しかし、戸山調教師は、ミホノブルボンの走る気に任せておけば楽勝だったという考えのもとで、無理に抑えようとした小島貞騎手の騎乗に対して納得していなかった。
ただ、戸山調教師は、小島貞騎手をミホノブルボンの主戦騎手から降ろすことは考えなかった。競馬界においては、たとえミスがなくともG1などの大レースを勝った馬には、実績のある騎手に乗り換えさせることが多い。
しかし、戸山調教師は「努力すれば、諦めなければ、道は開ける。そう言っている当人が、努力する者を見捨てるわけにはいかない」と小島貞騎手を見捨てるようなことはせず、最後まで小島をミホノブルボンの主戦騎手として騎乗させ続けたのである。
圧巻の皐月賞
年が明け、皐月賞トライアル・スプリングS(G2)に出走することになったミホノブルボン。距離は前走よりも200メートル延びた1800m。
戸山調教師は、ここで良い走りが出来なければクラシック戦線を諦め、スプリント戦線に路線変更するつもりだった。
しかし、そんな心配をよそにミホノブルボンは、距離の不安を払拭するかのように無傷の4連勝を飾る。
ちなみに同レースには、のちに日本最強短距離馬の呼び声高いサクラバクシンオーも出走していたが、12着に敗れたことでクラシック戦線を諦め、短距離戦線に駒を進めることになる。
そして、迎えたクラシック第1戦の皐月賞(G1)に出走すると、ミホノブルボンは最初から先頭に立ち、逃げる競馬を展開に迫る馬は1頭もいなかった。まさに”栗毛の超特急”とも表現するべきか。
結果的には、2着のナリタタイセイに2馬身半差を付けて勝利。クラシック初制覇となった小島貞騎手は「僕を男にしてくれたミホノブルボンにお礼を言いたい」と騎手デビュー22年目にして嬉し涙を流した。
2年連続無敗の二冠馬誕生へ
当然、次走は全ホースマンたちの目標である日本ダービー(G1)である。
しかし、そのダービーは、距離がさらに400m延長し、2400mとなる。調教によって磨かれたそのスピードこそが不安視された血統面からくる距離の壁が問題だった。
そこで戸山調教師は、ミホノブルボンに坂路を5本走らせるスパルタ調教を行った。
「トウカイテイオーが坂路3本なら、才能で劣るミホノブルボンは4本、5本を負わないと勝てない」前年、無敗で日本ダービーを制し二冠馬となったトウカイテイオーと比較したのだ。
そして、迎えた日本ダービーでは、単勝オッズ2.3倍の1番人気。スタミナを加味した調教に絶対の自信を見せる陣営は果敢にハナを切らせた。
最後の直線に入ると、後続馬が襲い掛かかってくるもミホノブルボンは捕まることなく、2着のライスシャワーに対し、距離不安説をあざ笑うかのような会心の逃げ切り勝ちで4馬身差の圧勝。坂路から生まれた無傷のダービー馬誕生の瞬間である。
過酷なトレーニングに導かれた栄光を手に陣営は、調教の確かさとこの馬の底知れぬ可能性をあらためて痛感したに違いない。
そして、レース後、戸山調教師は「これまでとは能力が違ったということでしょうね。これなら次(三冠目、菊花賞)を考えてみたい」とスプリンターの血が濃いミホノブルボンが、3000mの菊花賞(G1)に狙いを定めることを明言した。
夢幻に終わった菊花賞
順調に夏を越し、鎧のような分厚い筋肉はさらに鍛えられ凄みを増していた。
無論それは強さを映す鏡でもあり、そんな馬体をみた世間の注目は、シンボリルドルフ以来、無敗の三冠馬誕生であった。
秋に入るとミホノブルボンは京都新聞杯(G2)から始動する。
レースは、2分12秒0のコースレコードで勝利し7戦7勝とした。しかし、レース後、小島貞騎手は「正直なところ一杯一杯」と直線で促しても反応しなかったことを語った。
さらに2着には、日本ダービーでもミホノブルボンの後塵を拝したライスシャワーが、4馬身差だったのが1馬身半差まで詰め寄って着差は確実に埋まっていたのだった。
それでも無敗の三冠馬誕生への期待は、否が応でも高まり、その重圧をはねのけるように鍛錬もヒートアップしていた。
そして、迎えた運命の菊花賞である。
レース前、戸山調教師は小島貞騎手に「キョウエイボーガンが逃げてもいつもどおりミホノブルボンを先頭に立たせて逃げるように」と指示を出していた。
しかし、小島貞騎手は、前に行きたがるミホノブルボンとキョウエイボーガンのハイペースな逃げ、そして3000mという距離から2番手につけたのだった。
それでも3コーナー付近に入るとミホノブルボンが先頭に立ち、そのまま直線に入った。いつも通り、後ろから誰も追ってこないはず――しかし、2番手から競馬を進めた遅咲きのステイヤーが強襲してきたのだ。
そして、ゴール前でついにミホノブルボンはライスシャワーに抜かれてしまい、誰もが夢見た無敗の三冠制覇の夢はもろくも砕け散ったのだった。
レース後、小島貞騎手は「どうして、キョウエイボーガンを交わさなかったのか。なんでブルボンを信じられなかったのか」と涙を流し自分自身の騎乗を悔やんだ。すると、戸山調教師は「ボーガンと競っていたら2着どころか惨敗していたかも知れない」と小島貞騎手を擁護した。
ただ、この菊花賞は近年稀にみるハイペースで、ミホノブルボンの走破タイムも従来の菊花賞レコードだった。競馬にタラレバは厳禁だが、例年の菊花賞ならミホノブルボンは無敗の三冠馬になっていたかも知れない。しかし、勝ったライスシャワーもミホノブルボン同様、日本歴代最強馬と呼べる名馬だったのは間違いない。
亡き名調教師の賜物
惜しくも無敗の三冠馬の夢は破れたが、その後は、ジャパンC(G1)に照準を定めるも右後脚に故障が発生する。そのため、年内はレースを断念することになった。
ただ、8戦7勝、無敗の二冠馬は高く評価され、その年の年度代表馬に選出された。
しかし、その授賞式に戸山調教師の姿はなく、その時は、すでに病院のベッドの上。末期の食道癌を患っていたのだ。
実は戸山調教師は、ミホノブルボンと出会った時から、自分自身の体調の異変に気付いていた。だからこそ、残りの競馬人生の全てをミホノブルボンに費やしたが、翌年の5月29日に惜しまれつつこの世を去った。
入院中の戸山調教師は最後まで「ブルボンは大丈夫か?」と自分自身の体調面よりもミホノブルボンの事を心配していた。
悪夢の菊花賞から1年が経ち、復帰の目途が立たなかったミホノブルボンも、そのままターフを去るのである。
栗毛に輝く筋肉の鎧を纏い三冠ロードを疾走したミホノブルボン。
鍛え抜かれた分厚い馬体は常識を超えたスパルタ調教の賜物であり、ミホノブルボン自身がそれに答える精神力を持ち合わせていたことの証である。
立ちはだかる様々な壁を気迫のトレーニングで克服した競走生活、それは新たな名馬の姿でもあったに違いない。
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生涯戦績 8戦 7勝(7-1-0-0)
主な勝鞍 皐月賞・日本ダービー・朝日杯3歳S
※記事内の馬齢表記は、当時のまま現表記+1としている。
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