セイウンスカイ|歴代最強馬|芦毛の逃亡者|名馬たちの記憶㉖

名馬たちの記憶
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セイウンスカイ
芦毛の逃亡者

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セイウンスカイ 芦毛の逃亡者

1998年世代は、スペシャルウィークキングヘイロー、外国産馬のエルコンドルパサーグラスワンダーといった現在でも”最強世代”や”黄金世代”と呼ばれているほど名馬が出揃った。
その中で牡馬クラシック二冠馬に輝いたセイウンスカイ。

逃げたら勝てない――。

そんな定説のもと”淀の3000m”を逃げ切った芦毛の逃亡者である。今回は、そんなセイウンスカイについての記憶を振り返りたい。

売れ残った仔馬

1995年4月26日、北海道鵡川町の西山牧場でセイウンスカイは誕生した。

当時、セイウンスカイが生まれた西山牧場は、最大250頭もの繁殖牝馬を抱え競走馬の大量生産を行っていた大牧場だった。しかし、この大量生産に伴う管理費の肥大化、導入した種牡馬の失敗などの影響によって経営は次第に悪化。

そのため、セイウンスカイが生まれたころには、牧場改革が行われ、多くの種牡馬が外部に売却された。

もちろん、セイウンスカイの父シェリフズスターも例外ではなく、その産駒たちも次々に安価で売却され、最終的には3頭の幼駒が売れ残りとなるが、そのうちの1頭がセイウンスカイだったのである。

運命の出会い

そんなセイウンスカイを引き取ることになったのが、当時、調教師免許を取得したばかりの保田一隆調教師だった。

保田一調教師の父親は言わずと知れた「モンキー乗り」の先駆者で歴代最強騎手の1人である保田隆芳元騎手(元調教師)。実は西山牧場と保田隆元騎手とは縁が深い関係だったのだ。
そのため、保田一調教師は、父が世話になった西山牧場に挨拶へ行った際、セイウンスカイと出会うことになるのだが、この時のセイウンスカイは馬体のバランスも悪く、毛色もくすみ、見栄えもよくない競走馬だった。

しかし、保田調教師はそんなセイウンスカイを引き取ることにした。それは、厩舎的にどうしても牡馬が必要だったからである。

実際にセイウンスカイを目にした保田調教師は「見た目だけなら断然、別の牝馬のほうが上でした。ただ、厩舎の事情で牡馬がほしかったのと、シンボリ牧場に由来する牝系が魅力で、あの馬を選びました」と語っている。

セイウンスカイの母シスターミルの父は、かつてリーディングサイアーにも輝いたことがあるミルジョージ。
血は裏切らない――その血はセイウンスカイに確かな能力を継承していた。ただ、それが証明されるのは、まだ数年先の話である。

覚醒する素質

入厩当初から全く走るような素振りがなかったセイウンスカイ。ところが、3歳(現2歳表記)の秋には、見違える姿に変貌した。

あれほど悪かった馬体のバランスが改善され、見た目にも走りそうな雰囲気を漂わせていったのである。

それは、かつて2冠馬ミホシンザンの調教をしていた青柳調教助手が「これは走る」と強い印象を抱くようになったほどである。
そして、セイウンスカイは1998年1月5日に中山競馬場の芝1600mの新馬戦でデビューを果たした。

このデビュー戦でセイウンスカイは、素質馬としての可能性を秘めた走りを披露。終わってみれば、2着のマイネキャロルに6馬身差をつけて圧勝だった。こうして、芦毛の逃亡者は、競走馬としての第一歩を踏み出したのである。

世代クラシック候補へ

続く2戦目のジュニアカップ(OP)でも2着に5馬身差をつけて圧勝。

父シェリフブスターに実績がなかったため、低評価だったが、2戦とも大差の勝利を挙げたことで一躍クラシック候補に名を連ねることとなる。しかし、このレースでソエを痛めたセイウンスカイは、十分な調教が行われないまま、皐月賞(G1)のトライアル弥生賞(G2)に出走することとなった。

レースでは、のちにクラシック戦線で最大のライバルとなるスペシャルウィークに半馬身差の2着に敗れた。ただ、これはあくまで調整不足によるもの。あくまでも本番は皐月賞である。
そこで、このレースの敗戦を受けオーナーの西山茂行氏は、主戦だった徳吉孝士騎手の乗り替わりを要請した。

これには深い理由があり、西山茂行氏の父・正行氏は、西山牧場の創業者であるが、高齢で病を患っていたこともあり、セイウンスカイが晴れ姿を見せる最後のチャンスかもしれないと考えていたのだ。

そして、保田一調教師は、当時、デビュー12年目の横山典弘騎手にセイウンスカイの騎乗を依頼する。その当時、すでに中央G1・7勝を挙げていた横山典騎手の実績なら申し分ない。そんな実績ある関東の名手に対し、保田一調教師も「馬の気に乗るというか、傍目にはとんでもないと映る乗り方が、実はその馬にとってのベストだったりする。彼はそういう技術と感性を持った騎手だと思います」と高く評価している。

そんな横山典騎手は、皐月賞の直前、記者陣に対し「武豊ばかりじゃ面白くないだろ?」と武豊騎手に対するライバル心を燃やしていたこともクラシック本番を大いに盛り上げた。

こうして、横山典騎手にとってセイウンスカイとの出会いは、今後の騎手人生に大きな影響を及ぼすことになるのだった。

皐月賞制覇

横山典騎手に乗り替わって迎えた皐月賞。セイウンスカイはスペシャルウィーク・キングヘイローと並び三強の一角に数えられ、良血馬2頭の間を割るように2番人気に支持された。
レースでは、前半1000mの通過タイムが60秒4とよどみないペースになり、スペシャルウィークら後続勢は脚を使わされる。

そんな中、セイウンスカイは2番手から楽な手ごたえで直線に入ると、最後はスペシャルウィークとキングヘイローの猛追を交わして見事勝利。

横山典騎手の好騎乗が光る結果となった。
なお、この勝利は西山牧場にとっては初の牡馬クラシック制覇であり、もちろん開業したばかりの保田一調教師にとってもG1初勝利となった。

そして、この勝利は意外にも横山典騎手にとってもクラシック初制覇だったのである。

逃げて勝つ!39年ぶりの快挙へ

次走の日本ダービー(G1)では、武豊騎手が騎乗するスペシャルウィークに敗れ、セイウンスカイとスペシャルウィークで一冠ずつ分け合った春の牡馬クラシック戦線。鞍上の横山典騎手と武豊騎手の対決も菊花賞(G1)に舞台を移すこととなる。

その菊花賞は、ご承知の通り3000mという長丁場で行われる。
「菊花賞の鉄則は逃げたら勝てない」と言われていたように3000mを逃げ切るのは至難の業だが、それを保田隆元騎手が、1959年にハククラマで逃げ切り勝ちを収めている。
しかし、それ以降、菊花賞で逃げ馬が勝利することはなかった。
ところが、セイウンスカイなら逃げ切れるのではないか?
保田一調教師は、そんな考えを密かに持っていたのだった。

その前に菊花賞の前哨戦をどのレースにするか――ここで保田調教師は古馬重賞の京都大賞典(G2)を選択する。
これには理由があり、セイウンスカイは、その気性の荒さから時折ゲートを嫌がる素振りを見せるため、万が一に備えてゲート再審査になったとしても菊花賞に間に合うよう京都大賞典を選択したのだ。もちろん、先述の通り、古馬重賞とあって、リスクを背負っての出走は百も承知。
そして、相手となるのは、その年の天皇賞・春(G1)を制したメジロブライトや前年の有馬記念(G1)を制したシルクジャスティスなど歴戦の強者ばかり。

そんな中、レースで横山典騎手は、セイウンスカイの行く気に逆らわず大逃げを打つのである。その結果、向こう正面では後続と20馬身差をつけたセイウンスカイ。
流石の展開に保田一調教師も「いくらなんでも飛ばしすぎだろう」と絶句したという。そして、3コーナー半ばで後続が近づいてきたが、直線に入るとセイウンスカイは再び加速し、メジロブライトの追撃を振り切って勝利する。

このレースで横山典騎手は、最初こそ派手に大逃げを打ったものの、実はレース中盤でペースを落としていたのだった。

馬の乗り気を見極めるのが得意な横山典騎手が魅せた、まさに”ノリ・マジック”炸裂である。
「親友みたいな感じだった。どんなことをするのか、いつもワクワクしていた。人間味があるって言うとヘンだけど、人間っぽかった」と横山典騎手が語っているように、それが実行できたのは、横山典騎手とセイウンスカイはとても相性が良かったからだといえるのではないだろうか。
こうして、希代のトリックスター・セイウンスカイと横山典騎手は、万全を期し菊花賞へと向かうのだった。

39年ぶりの逃亡劇

迎えた運命の菊花賞。このレースにはもちろんライバルのスペシャルウィークも参戦しており、下馬評ではやはりスペシャルウィークの方が一枚上手とされていた。

ただ、このレースは後に横山典騎手のベストレースに挙げられるほど、素晴らしいものとなる。
レースは、セイウンスカイが前半1000mを59秒6と長丁場を考えれば超ハイペースで先頭に立ち、前走の京都大賞典同様に中間の1000mを64秒3と一気にペースを落とした。
先述の通り、「菊花賞は逃げたら勝てない」といわれている中、逃げ馬にとっては厳しいレース展開だということは変わらない。

しかし、この時点で横山典騎手は勝利を確信したという。
それは「馬がムキになっているかどうかは、耳の動きを見ると分かるんです。向正面で1頭になると、耳を動かして馬が遊んでいましたから、これなら大丈夫と思いました」とレース後の横山典騎手のコメントが物語っている。

その言葉通り、終盤に入るとセイウンスカイは一気に加速し、京都大賞典以上のロングスパートを開始。そして、見事逃げ切りで菊花賞を制するのである。しかも勝ちタイムは3分3秒2と当時の世界レコードを記録。そして、驚くことにセイウンスカイは、最後の1000mを59秒3で駆け抜けていた。

この脚で走られては驚異の末脚を誇るスペシャルウィークでも2着を死守するのが精一杯だろう。
横山騎手の見事なペース配分とそれに応えたセイウンスカイ。この菊花賞はまさに芸術作品のようなレースとなり、まさに横山典騎手のベストレースともいえよう。

不運な引退

最強世代と呼ばれる1998年世代で牡馬二冠に輝いたセイウンスカイ。
その後、年末の有馬記念では、1番人気に推されるものの、同世代の怪物グラスワンダーの前に4着と敗れた。
年が明けるとセイウンスカイは日経賞(G2)から始動し、ここでは2着に5馬身差をつけて圧勝。
ちなみにこのレースで2着に入ったのは、皮肉にも同じシェリフズスターを父に持つセイウンエリアだった。

しかし、続く天皇賞・春では、昨年セイウンスカイがねじ伏せたスペシャルウィークに差し切られての3着。
夏の休養を経て、迎えた札幌記念(G2)では、59kgの斤量をものともせず、牝馬二冠馬ファレノプシスを半馬身抑えて勝利した。

ところが、次走の天皇賞・秋(G1)では、本馬場入場でダイワテキサスと接触するアクシデントなどもあり5着に敗退。その後、屈腱炎を発症してしまう。

早期復帰を目指す中、何とか翌年の天皇賞・春に出走をこじつけたが、もはや希代のトリックスターの姿はそこになく、テイエムオペラオーとメイショウドトウの前にまさかの最下位(12着)に敗退後、橈骨を痛めてしまい、そのまま不運な形でターフを去るのであった。

その血は名牝に受け継がれる

「わしの意図はひとつ。父のシェリフズスターは100打数1安打の種牡馬。セイウンスカイもそうなる可能性は大。わしが愛したこのセイウンスカイの血統を後世に残すには、桜花賞馬ニシノフラワーと交配し、牝馬が産まれたらその血を繋ぎ、セイウンスカイの名はどこかで生き続けるだろう」と自身のオフィシャルブログに綴った西山茂行氏。

その後、有言実行となったセイウンスカイの血は、名牝ニシノフラワーとの間に生まれたニシノミライが受け継ぎ、2022年の中山大障害(障G1)を制したニシノデイジー(父ハービンジゃー)はセイウンスカイのひ孫にあたる。

かつて西山牧場を救った名牝と芦毛の逃亡者の交配は、西山茂行氏自ら「逆玉の輿」「狂気の交配」とまで評した馬主のロマンは、現代まで細々と受け継がれている。

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主な勝鞍 皐月賞・菊花賞

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