メイショウドトウ|歴代最強馬|覇王への挑戦者|名馬たちの記憶㉕

名馬たちの記憶
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メイショウドトウ
覇王への挑戦者

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メイショウドトウ 覇王への挑戦者

時は2000年世紀末――その無類の強さから世紀末覇王と呼ばれたテイエムオペラオー
皇帝シンボリルドルフに並ぶG1レースを7勝し、日本競馬史上で年間グランドスラムを達成した唯一の名馬である。この名馬に対し果敢に挑戦し続けたメイショウドトウ。

世紀末覇王に何度も挑み倒され、それでも戦いを挑み続けた史上最強の二番手。
今回はそんなメイショウドトウの記憶に迫りたい。

超安値の外国産馬

英国のサセックスS(G1)などG1・4勝したビッグストーンを父に持ち、米国産まれの母プリンセスリーマとの間に1996年3月25日アイルランドの地で生を受けたメイショウドトウは、いわゆる外国産馬である。
そんなメイショウドトウは、500万円で取引され、メイショウの冠名で知られるオーナーの所有馬となった。これは外国産馬の金額としては異例の安価だろう。ただ、輸入費などを考えれば、大損する可能性も高く、決して安い買い物だったとはいえない。
しかし、数年後には購入金額の180倍も稼ぐことに競馬のロマンを感じずにはいられないし、入厩当時は全く注目されていなかったのも競馬の面白さではないだろうか。

不運を持ち合わせた宿命

2歳になったメイショウドトウは、栗東の安田伊佐夫調教師の元に入厩した。入厩当初から、頑丈な馬体とスピードを持つも成長が非常に遅く、なかなか馬体が仕上がらず、少し運動をさせるとソエを痛める始末。結果的にデビューは年が明けた1999年1月6日まで遅れることに。
ただ、この日は奇遇にもオーナーの誕生日であり、安田調教師は「オーナーの誕生日プレゼントとして絶対勝てる馬を用意しました」とメイショウドトウをレースに送り出した。鞍上には安田調教師の息子である安田康彦騎手が跨り、万事必勝態勢を敷いた。

しかし、レースでは1番人気に支持されるも2着。オーナーへの誕生日プレゼントとはならなかった。そして、中1週で迎えた2戦目だったが、ここでもメイショウドトウは不運に見舞われる。
それは、デビュー戦で手綱を取った安田騎手が高熱を出すというアクシデント。それでもメイショウドトウの素質を買っていた安田騎手は、高熱にもかかわらず無理をして手綱を取った。
その気迫が伝わったのか、メイショウドトウは鋭い末脚を見せて見事初勝利を挙げた。

ところが、その後はクラシックを目指すも条件戦を勝ったり負けたりのレースを繰り返すことでクラシックにも縁がなかった。
そして、メイショウドトウにさらなる不運が訪れる。それは厩舎の調教助手が突如姿を消したことにより、厩舎内がゴタゴタ状態になったことだった。また、それに合わせるようにして、メイショウドトウにも持病の管骨骨膜炎が発症。

こうして、メイショウドトウは色々な不運が重なってしまい、夏の休養を余儀なくされた。

活躍しても話題にならない

ここまで全てダートを走り5戦2勝、可もなく不可もなくといったメイショウドトウだったが、休養を経て9月に入ると条件馬ゆえに古馬との対戦が多くなる。それでも芝路線に舞台を移し10月、11月と連勝。見事オープンクラス入りを果たした。

ところが、オープンクラス初戦となった六甲ステークスでは1番人気に押されながらも、まさかの最下位敗退。これには、安田調教師も「一体何が悪いのか全くわからない」と頭を悩ませた。それでも4歳となった年明け初戦の日経新春杯(G2)に果敢なく挑戦。
ただ、この時、主戦だった安田騎手が騎乗停止処分中だったこともあり、武幸四郎騎手が代役を務めることになる。
すると、レースでは2着と重賞初挑戦としては大健闘。しかし、1着には武豊騎手が騎乗したマーベラスタイマーが入線。これによりJRA重賞初の兄弟騎手ワンツーフィニツシュが新聞の一面をかざることになった。そのため、オープンクラス未勝利ながらも格式高いG2で2着になったメイショウドトウの話題は埋もれることになる。

デビュー時から何かと不運が続くメイショウドトウ。今になって不運の星を持った馬だったことは理解できるだろう。

そんなメイショウドトウに対し、競馬の神様の悪戯という不運はさらに続き、次走の中京記念(G3)では当時のコースレコードで重賞初制覇を成し遂げるも、このレースではオークス馬エリモエクセルの引退レースだったため、話題はコースレコードで勝利したメイショウドトウではなく、エリモエクセルに全てもっていかれることになった。

不運が重なり、なかなか注目度が低かったメイショウドトウ。
しかし確実に競争馬としては、本格化し始めた手応えを陣営は密かに掴んでいた。

覚醒の始まり

中京記念を勝利したことで陣営は、この2000年から外国産馬にも門戸が開かれた天皇賞・春(G1)を目標にした。その試金石として、まずは日経賞(G2)に挑戦。怪物グラスワンダーステイゴールドなどと争い、4番人気ながら3着と好走をみせた。

しかし、陣営は勝ちきれなかったことで天皇賞・春の出走を断念。新たな目標を6月の宝塚記念(G1)に定めた。
そして、4月に入るとメトロポリタンSでは、日本レコードに0.2秒差という好タイムで勝利。しかし、レース自体が2300mという微妙な距離でのタイムだったことから世間的に取り上げられることはなかった。

また、次走の金鯱賞(G2)では有馬記念(G1)を制したシルクジャスティスや菊花賞馬マチカネフクキタルといったG1馬が参戦する中でメイショウドトウは圧巻の走りを見せて見事勝利し、重賞2勝目をあげるもなぜか、このレースで敗れたシルクジャスティスやマチカネフクキタルの方が話題になったのだった。

この先のメイショウドトウを思うと、まさに不運の馬としか言いようがない。

永遠のライバルとの出会い

当初の予定を変更して迎えた宝塚記念。この時のメイショウドトウは殆ど無名に近い競走馬だった。さらにこのレースには同じオーナーの所有馬メイショウオウドウ・・・・も参戦しており、ややこしい名前の馬程度としか認識されていなかった。

そして、このレースにはグランプリ4連覇を狙うグラスワンダーと先の天皇賞・春を制したテイエムオペラオーが参戦。しかし、強敵を前にレースでは好位につけたメイショウドトウが直線で一気に先頭に立った。
グラスワンダーは伸び悩み、テイエムオペラオーはグラスワンダーを意識して仕掛けが遅れている状態。

メイショウドトウにとってG1初挑戦初勝利を期待する展開となった。
ところが、その夢を打ち砕いたのは、この年に入って無敗のテイエムオペラオー。
後に世紀末覇王と呼ばれるテイエムオペラオーに交わされるもメイショウドトウはクビ差の2着に滑り込んだ。
G1
初挑戦でこの成績は陣営としても、メイショウドトウの強さを再認識するのに十分な結果だった。

あのテイエムオペラオーとわずかクビ差での2着。
ただ、メイショウドトウにとって、このクビ差は果てしなく遠いクビ差となるのだった。

 世紀末覇王の壁

夏の休養を経て臨んだ秋初戦のオールカマー(G2)。当日は重馬場だったため、陣営はかなり懸念したが、本格化したメイショウドトウには関係なかった。古豪ステイゴールドなどを寄せ付けず、陣営の不安も吹き飛ばすほどの快勝をみせた。

そして、満を持し天皇賞・秋(G1)に駒を進めるが、ここには、もちろんテイエムオペラオーも出走。ただ、メイショウドトウにとって天皇賞・秋には1つジンクスがあった。それは、これまで1番人気の馬が12連敗していることだった。
さらに付け加え、テイエムオペラオーの主戦だった和田竜二騎手は、東京競馬場を最も苦手としていた。

ジンクスと鞍上の苦手意識から自然とメイショウドトウに注目が集まる。

そして、レースでは好位につけたメイショウドトウがいつも通り直線早めに抜け出しにかかった。しかし、世紀末覇王にジンクスなど関係なかった。
最後の直線を1頭だけ別次元の走りを見せたテイエムオペラオーが、前を走るメイショウドトウをアッという間に交わし最終的には2馬身半、メイショウドトウは圧倒的な力の差を見せつけられたのだった。
その後、テイエムオペラオーとの闘いは次走のジャパンカップ(G1)へと続く。
このレースでは、当時の欧州最強馬の1頭だったファンタスティックライトが参戦。
レースは1000mを通過した時点で脅威的なハイペースな展開に。そんな中でメイショウドトウは早め先頭に立つ作戦に出た。しかし、テイエムオペラオーとファンタスティックライトの日欧最強馬が猛襲を見せる。
そして、3頭がもつれ込んだゴール前を制したのは、またしてもテイエムオペラオーでメイショウドトウは僅差で3度目となる苦杯を喫する格好となった。

5回連続G1・2着という記録

ここまで3度G1レースに出走するも全て2着。そこに立ちはだかったのは言うまでもなくテイエムオペラオーだった。何としてもG1の勲章を得たいメイショウドトウは暮れの大一番、有馬記念に出走を表明。

もちろん、このレースに勝利すると前代未聞、史上初の年間グランドスラムの偉業達成となるテイエムオペラオーも出走。2000年の古馬中長距離戦線は、まさにテイエムオペラオーの独断場。

メイショウドトウだけではなく、多くのライバルたちがテイエムオペラオーに煮え湯を飲まされていただけに歴史的この大記録阻止に必死だった。その結果、レースではテイエムオペラオーを完全に囲む形で展開されることに。いわゆる『テイエムオペラオー包囲網』である。
中々抜け出せずに苦しむテイエムオペラオー。いつも通り直線で先に抜け出したメイショウドトウ。中山の直線は東京と違って短い。
さすがに今度こそは勝利したと思った瞬間、どこから抜け出してきたのか、非情にもテイエムオペラオーがメイショウドトウを差し切ったところがゴールだった。

4度目となる惜敗。まさにあいつさえいなければ状態だろう。

そして、年が明けると日経賞を難なく勝利したメイショウドトウは天皇賞・春でテイエムオペラオーと5度目の対決を迎える事になる。
ただ、テイエムオエラオーは2000年を8戦8勝だったが年明け初戦となった産経大阪杯(G2)で、まさかの4着に敗退。メイショウドトウ陣営からすれば、千載一遇のチャンスが訪れたと思われた。

しかし、迎えた天皇賞・春も終わってみれば、いつもどおり僅差での2着。これで出走したG1レース5戦全てをテイエムオペラオーの2着という結果になった。G1・2着5回。

メイショウドトウにとって、永遠に差を埋めることができないと思われるほど、5度目の対決を終えたのである。

6度目の正直

それでもメイショウドトウは次走に宝塚記念を選択。気付けばテイエムオペラオーと出会ってから丁度一年が経過していた。

届きそうで届かないG1制覇の夢。そこで宝塚記念を前に主戦の安田騎手は「宝塚記念で結果が出なければ主戦を降板する」と宣言。
まさに人馬とも背水の陣で挑んだ宝塚記念となった。

レースでは、3コーナーでテイエムオペラオーが不利な状態になっていることを安田騎手は見逃がなかった。早め先頭に立つと、今度ばかりは完全なセーフティーリードを保つことに成功。
しかし、これまでテイエムオペラオーが幾度となく自慢の豪脚で追い上げゴール前で交わされ続けてきた。人馬ともに迫りくる覇王の脚色に怯えながらも懸命にゴール板を目指し――ついにその差が縮まることはなかった。

6度目にしてメイショウドトウが初めて歓喜に湧いた瞬間だった。
見事、テイエムオペラオーの猛追を凌ぎ念願のG1初勝利を手に入れたのだった。そして、この勝利はオーナーにとっても嬉しい初のG1勝利となった。

その後、夏の休養を経て7度目の対戦となった秋の天皇賞では、メイショウドトウとテイエムオペラオーの両馬とも伏兵馬のアグネスデジタルに敗れてしまう。それは、明らかに力の衰えからくるものだった。
こうして、この年の有馬記念を最後にメイショウドトウとテイエムオペラオーは、共にターフを去った。

500万円という決して高い馬ではなかったメイショウドトウ。実はライバルであるテイエムオペラオーも小牧場で生まれ約1000万円で購入された競走馬だった。

現在では、数千万円〜数億円で取引される競馬の世界において、世紀末から新世紀という時代を駆け抜け両馬が見せた戦いは、競馬の夢とロマン、そして多くの感動を怒濤の如く伝えてくれたに違いない。

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生涯戦績 27戦10勝(10-8-2-7)
主な勝鞍 宝塚記念

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