カネヒキリ|歴代最強馬|不屈のダート王|名馬たちの記憶㊱

名馬たちの記憶
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カネヒキリ
不屈のダート王

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カネヒキリ 不屈のダート王

ハワイ語で『雷の精』との意味を持つカネヒキリは、その由来通り、電光石火の如く末脚でダートG1通算7勝を挙げて、ダート界の一時代を築いた。

しかし、その馬生は2度の屈腱炎を乗り越えるなど、決して順風満帆ではなく、何度も苦難を乗り越えた結果、長きに渡ってダート王に君臨し続けたのである。

今回は、そんな不屈のダート王カネヒキリの記憶について振り返りたい。

脚質は父似、容姿は母似

父はサンデーサイレンスの初年度産駒でクラシック直前に屈腱炎にて引退した”幻の三冠馬”との呼び声が高いフジキセキ

ライフアウトゼアの全兄シルバーデュピティは、種牡馬としても活躍。また、母の父デピュティミニスターは、北アメリカのリーディングサイヤーでもある血統背景を持ったカネヒキリは2002年2月26日に北海道は早来町のノーザンファームにて産声を上げた。

母と同じ栗毛として生まれたカネヒキリは、青鹿毛の父よりも母方の血が濃いと思われたが、のちの脚部不安を考えると容姿は母方で脚質を含めた能力は父方の血を受け継いでいたのかも知れない。

ダート適性

2004年7月末日に角居厩舎からデビューしたカネヒキリは、芝レースを2つ走るも勝ち切れず、3戦目からダートに路線変更してからは、未勝利戦で7馬身、3歳500万下(現1勝クラス)では大差勝ちとダート適性の片鱗を見せた。

しかし、5戦目となる毎日杯(G3)に出走すると、芝コースのためか7着と惨敗し、ここで芝路線に見切りをつけたカネヒキリは、この先、本格的にダート路線を歩み始めるのである。

 

世代ダート王者

続く次走の端午S(OP)では9馬身差、ユニコーンS(G3)でも着差以上の強さを見せたカネヒキリはダート4戦無敗で初重賞制覇を成し遂げた。

多くのフジキセキ産駒は芝適性に強い傾向だが、カネヒキリの場合、ダート適性◎に間違いなかった。だが、その父の血を別の意味で引き継ぐのは、まだ先の話である。

そして、世代のダート王決定戦であるジャパンダートダービー(地方交流G1)では、2着のメイプルエイトに4馬身差を付け圧勝。
続くダービーグランプリ(地方交流G1)においても2着のサンライズバッカスに2馬身半差で勝利と快進撃は止まらず、デビューから僅か1年少々で堂々とG1 2連勝を飾り、一気に世代のダート王の地位を不動のものとした。

真の王者に

世代王者となり、いよいよ古馬との初対決に挑むことになったカネヒキリ。

その前哨戦として、武蔵野S(G3)では、敵なしかと思われていた。しかし、出遅れが響いてか、最後に鋭く追い込んだ同世代で前走で撃破したサンライズバッカスに届かず、2着に甘んじる格好となった。ただし、斤量が3キロ差あったことも敗因の1つだったといえよう。

まさかのダート戦で初黒星を喫してしまったが、続くジャパンCダート(G1、現チャンピオンズC)では前走の借りを返す形となる。

中団好位でレースを進めたカネヒキリは、最後の直線に入ると、大外一気に逃げ粘るシーキングザダイヤスターキングマンとの熾烈な叩き合いの末、最後はハナ差でシーキングザダイヤを交わしての勝利。

コースレコードのおまけ付きで中央初G1の栄冠を手にした。合わせて、主戦の武豊騎手が3年連続200勝を達成するなど、カネヒキリにとっても日本のダート界の頂点に君臨したのだった。

世界へ、そして…

年が明け、3月のドバイワールドカップ(G1)を目標に2月のフェブラリーS(G1)から始動したカネヒキリ。ここでも前走同様に並みいる強豪馬たちを相手に王者の貫禄をまざまざと見せつける形に。前走ハナ差だったシーキングザダイヤに3馬身差を付けて勝利した。

もはや国内に敵なし、後顧の憂いを断って、いざ世界へと歩み出したカネヒキリ。

しかし、ドバイに集結した世界最高峰のダート馬たちの壁は高く険しいものとなった。
レースは、勝ったエレクトロキュートニストに大きく離された5着だったが、失格となった馬がいたため4着に繰り上げ入線となった。それでも世界の壁をまざまざと見せつけられる結果になったのは否めない。

帰国後、仕切り直しの一戦として、迎えた帝王賞(地方交流G1)に出走したカネヒキリ。
ここでは、敵なしと思われた中、地方の雄アジュディミツオーが逃げ粘りを見せ、猛追するも差が詰まらずの2着。
さらに巻き返しを図るべく、秋のジャパンCダート連覇に向け始動するも屈腱炎を発症してしまう。ここでまさか父の血を受け継ぐ形になるとは、誰が予想しただろうか。

この時点で引退説が流れるも陣営は現役続行を表明。長い休養に入り、じっくりと治療に専念し、無事に調教が再開されると再度、屈腱炎を発症し、父の血が、これでもかと襲い掛かった。

それでも陣営は諦めず、大規模手術を決行させ、カネヒキリが砂上に帰ってきたのは、帝王賞から約2年半の歳月が流れていた。

不屈のダート王

不治の病――屈腱炎。かつて多くの名馬たちを奈落の底に落とした競走馬にとって、厄介な怪我である。

2年4ヶ月ぶりの実践となったカネヒキリは、すでに6歳も終盤に差し掛かっていた。そんな中で迎えた武蔵野Sでは、久々のレースとあってか8着に敗れたのも致し方ない。
その後、3年前に勝利したジャパンCダートに出走することになったカネヒキリ。

しかし、この年から従来の東京ダート2100mから阪神1800mに変わり、国内ダート戦線の構図も大きく変わっていた。
カネヒキリ不在の間に国内ダートG1を6勝し、ダート王の地位を不動のものとしていたヴァーミリアンや新鋭サクセスブロッケンらが参戦した2008年のジャパンCダート。

さらにカネヒキリには、復帰初戦で8着に敗れたこと、主戦の武豊騎手が怪我のためC.ルメール騎手に乗り替わったこと、そして何より2度の屈腱炎による長い休養という逆風が吹き、4番人気に支持された。

しかし、不治の病を克服した、かつてのダート王が、その称号を取り返すべく、不死鳥のごとく今、舞い戻ろうとしているのだった。

レースでは、先行集団を追走したカネヒキリは、そのまま最内で脚を溜め、最後の直線に入ると内ラチ沿いから先頭を捉えるも外から脚を伸ばしたメイショウトウコンやヴァーミリアンが猛追を見せた。それでも何とか振り切り、アタマ差抜け出しての勝利。

これは、フェブラリーS以来となる2年と10か月ぶりの勝利となり、2度のジャパンCダート制覇は史上初(その後、トランセンドが連覇を達成している)となった。まさに不治の病を克服しての奇跡の復活を成し遂げたのである。

現王者と前王者

競走馬にとって不治の病である屈腱炎に2度もかかりながら、不屈の精神で見事、ダート王に再君臨したカネヒキリは、次走東京大賞典(地方交流G1)に駒を進めた。

レースでは、前走のジャパンCダートでカネヒキリに敗れたヴァーミリアンが、再度襲いかかってくる中、カネヒキリは王座を譲らないと言わんばかりのレースを披露する。最後の直線では両雄2頭のマッチレースとなり、最後は力でねじ伏せ、後続を突き放したカネヒキリに軍配が上がった。

こうして、ジャパンCダートでの復活劇と東京大賞典の勝利により、2005年に続き2008年の最優秀ダートホースに選出されたカネヒキリは、真のダート王として完全復活を果たしたのだった。

突如、終わりを告げる

年が明けて7歳になったカネヒキリは、船橋の最強馬フリオーソと3度目の対決となる川崎記念(地方交流G1)を迎えた。
ここでも逃げるフリオーソの2番手を堂々と追走し、直線に入るとフリオーソを捉え、手応え充分なまま半馬身差で快勝。
これで復帰してからG1を3連勝、また歴代最多タイとなるG1通算7勝目をマーク。

これだけ強い競馬を強いれば、ダート戦線は7歳になってもカネヒキリの時代がまだまだ続くだろうと誰しもが思ったかも知れない。

しかし、次走のフェブラリーSではサクセスブロッケンの3着に敗れると、続く、かしわ記念(地方交流G1)でも新鋭のエスポワールシチーに2着惜敗。

さらにはレース後に骨折が発覚。またしても休養が必要とされ、1年後に再度復帰した帝王賞ではフリオーソの2着に敗れ、その後、地方交流重賞2走した後に3度目の屈腱炎を発症。
さすがに8歳という年齢を鑑みての引退となった。

ダート王として一時代を築き、何度も不治の病を乗り越え、トップに上り詰めた不屈の闘志。
幾度となく苦難に見舞われようとも最後の最後まで第一線で戦い続け、決して諦めないことの大切さをわれわれに教えてくれた。

まさに雷の精霊の如く、その名は、競馬ファンの脳裏に末永く刻まれることだろう。

フジキセキ サンデーサイレンス Halo
Wishing Well
ミルレーサー Le Fabuleux
Marston`s Mill
ライフアウトゼア Deputy Minister Vice Regent
Mint Copy
Silver Valley Mr. Prospector
Seven Valleys

生涯戦績 23戦 12勝(12-5-1-5)
主な勝鞍 ジャパンCダート(2回)、フェブラリーS、ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、川崎記念


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