日本歴代最強馬シリーズ 名牝たちの記憶⑩ 砂の女王ホクトベガ

JRA-VANより 名牝たちの記憶

日本歴代最強馬シリーズ 名牝たちの記憶⑩

砂の女王ホクトベガ

 

遡ること四半世紀前――芝のGⅠエリザベス女王杯を制しながらダート戦線で10連勝を飾り、ドバイの地で星になった名牝をご存知だろうか。彼女の名はホクトベガといった。今と違って異国の地に挑戦し戦うことが皆無だった時代。その時代背景において彼女は世界一の称号を手にするため果敢に挑戦するも星となる運命を持った悲劇の名牝である。
今回は、そんな時代の先駆者であるホクトベガの功績という記憶に迫っていきたい。

砂の女王ホクトベガ

生産者の夢

ホクトベガの生まれは北海道浦河町にある酒井牧場。1972年に当時の牧場主が未来ある牧場にするため英国からシャークスキンという4歳の牝馬を輸入した。小規模経営の牧場にとっては、まさに根幹となるよう願いを込められ意を決して輸入された牝馬だった。そのシャークスキンと大種牡馬イエローゴッドとの間に生まれたのがクールフェアーという牝馬であり、そのクールフェアーは未出走ながら繁殖入り。フィリップオブスペインとの間に産んだのが初仔のタケノファルコン。のちにホクトベガの母馬となる馬であった。こうして、生産牧場の夢が繋がれたシャークスキンから数えるとホクトベガは曾孫にあたる。
また、ホクトベガの父ナグルスキーは、その父が世界的大種牡馬ニジンスキーでありノーザンダンサーの血を受け継ぐ種牡馬であった。産駒の特徴としては、瞬発力はないものの力やスタミナを要する主にダート戦を得意とする競走馬が多かった。そんな父と母との間に生まれたホクトベガ。しかし、ホクトベガが生まれた時、生産者は落胆したという。理由は1つ上の全兄にホクトサンバーストという牡馬がいたのだが、兄は雄大な馬格を持ち生産者を喜ばした。
反面ホクトベガは、本当に競走馬になれるのかと心配されるほど華奢だった。牝馬という点を差し引いても生産者が納得するような馬格ではなかったのだ。ところが数年後、中央のGⅠを獲り、ダート界では無類の強さを発揮するのだから、まさに競馬の浪漫であり競馬の面白いところでもあると言えよう。

良血馬との宿命

華奢な牝馬ホクトベガは3歳(現2歳)になり美浦の中野厩舎に入厩。体質的に3歳時はデビューできなかったものの4歳となり、デビュー戦となった中山のダート戦でデビュー戦を飾り、2戦目となったダートの条件戦では2着に惜敗も続くダートの条件戦で勝利し、4戦目となった3月のフラワーカップGⅢでは初芝をものともせず快勝。生産者の期待を裏切るかのように早くも重賞馬となった。父ナグルスキー産駒の傾向を見れば適正はダートだと思えたが、芝でも走った。こうなれば目指すは牝馬クラシック戦線である。
ところが同世代には、この年の日本ダービー馬ウイニングチケットを輩出することになる凱旋門賞馬トニービンを父とし、世界の血統史を塗り替えたといっても過言ではないノーザンダンサーの直仔アンティックバリューを母に持つ超良血馬ベガという牝馬がいた。
小規模な牧場で華奢な馬体を持ち決して良血とはいえない牝馬。方や日本一を誇る大規模牧場社台ファーム生産の超良血令嬢。馬名がほとんど同じホクト・・・ベガとベガは奇遇にも同世代に生まれ、この先ライバルとして戦うことになるのである。

ベガはベガでも……

良血馬ベガとの初対決は、ホクトベガにとって5戦目となる桜花賞だった。
直近の桜花賞トライアルレース、チューリップ賞を制し、ここまで3戦2勝2着1回と抜群の安定感を誇ったベガは天才・武豊騎手を背に1番人気。一方のホクトベガは6番人気だった。レースは人気通りベガが優勝。ホクトベガは5着に惨敗。
続く2度目の対戦はクラシック第2弾のオークス。ここでも令嬢ベガの後塵を踏む形で6着と敗北を喫した。
夏の休養を経て牝馬クラシック最後の1冠であるエリザベス女王杯に向け調整を進めたホクトベガ。10月のクイーンステークスGⅢとローズステークスGⅡに挑むも2着、3着と春先のフラワーカップを勝利して以来4連敗と勝ち切れない中で迎えたエリザベス女王杯。もちろん上位人気(2番人気)には牝馬三冠に王手のかかったベガが支持された。ベガと馬名が被るホクトベガは近走の結果から9番人気だった。ところが、『競馬に絶対はない』のが競馬である。京都競馬場に集った多くのファンは名牝メジロラモーヌ以来ベガの牝馬三冠達成を待ち望んでいただろう。
しかし、1着にゴール板を通過したのはベガはベガでもホクトベガ・・・・・・・・・・・・の方であった。こうして、大舞台で大金星を挙げたホクトベガはGⅠ初制覇とともに真・女王に君臨した。

女王はどこに

エリザベス女王杯を制し世代牝馬の注目の的となったホクトベガ。
しかし、ここから6歳(現5歳)の春先までの約1年半もの間に15戦を走り、勝ったのは札幌日経オープンと札幌記念GⅡのみだった。2勝するのも立派な記録だがGⅠ馬としては少し物足りない結果である。そして、競馬ファンからは真の女王の姿はどこにいったのかと言われるまでになった。このままGⅠ馬として終わってしまうのか。
かつてのライバルだった社台の令嬢ベガはすでにサンデーサイレンスとの交配が終わり翌年にはのちの日本ダービー馬となる初仔アドマイヤベガを出産することになる。
このまま引退か、それとも繁殖牝馬としての価値をさらにあげるため現役続行か。そんな先の見えないホクトベガにとって中野調教師が下した決断は新たな活路だった。

真価を発揮

エリザベス女王杯の勝ち馬ホクトベガの次走は、地方・川崎競馬場で行われる地方GⅠエンプレス杯と発表された。中央の芝GⅠ馬が地方のダートGⅠレースに出走する。今でこそ珍しくないが当時は中央のGⅠ馬が地方競馬に参戦と話題となった。
今以上に中央競馬よりも地方競馬が劣ると見られていた時代。仮にホクトベガが負ければ、それこそエリザベス女王杯覇者としての名が錆びれてしまう。それでも中野調教師は出走を決断したのだった。父ナグルスキーから受け継がれるダート適性を見抜いての決断だったかも知れない。

画像はイメージです。

そして、ホクトベガは川崎の地で伝説を残す走りを魅せた。2着アクアライデンに付けた着差は走破タイムにして3秒6差、18馬身差だった。まさにぶっちぎり・・・・・の代名詞ナリタブライアンもびっくりの独走劇。中央のGⅠ馬ここにありを見せつける形で初の地方交流戦を大勝で終えたのだった。

向かうところ敵なし

川崎のエンプレス杯を大差で勝った後、中央に戻り芝の重賞レースに5回出走するも惨敗が続いた。そして、年が明け7歳(現6歳)となったホクトベガは再び活路を地方交流戦に向けるのである。
1月末に行われた川崎記念GⅠでは当時、第1回のドバイワールドカップにも出走し日本ダート界の王者として君臨していた1番人気のライブリマウントを1・2秒差、着差にして6馬身差を付けて優勝。見事、地方GⅠ2勝目を挙げた。蛇足だが、このレースには3年前のジャパンカップを制した騙馬レガシーワールドも出走しており9着に敗れている。
さて、話をホクトベガに戻すが、ここから今もなお砂の女王と語り継がれる伝説の幕開けとなるのである。
王者ライブリマウントを軽々しく破った砂の女王ホクトベガは、次走を中央のダート重賞フェブラリーステークスGⅡ(当時はGⅠではなかった)での勝利を皮切りに翌年の川崎記念まで帝王賞や南部杯、浦和記念といった中央地方交流ダート戦7連勝を達成。初めて挑んだエンプレス杯から数えて実にダート戦においては10連勝となった。しかも2着にはそれなりの着差を付けての勝利である。まさにエリザベス女王杯を制したホクトベガという名誉よりも砂の女王としての名声が上がる、それほどまでに凄まじい活躍ぶりだった。
そして、ダート日本最強馬として目指すは世界ナンバーワンの称号。砂の王者ライブリマウントでも歯が立たなかったドバイワールドカップである。しかし、このドバイの地で悲劇が待ち受けているとは誰も思わなかった。

星になった日

ここから先は、青嶺の魂ことライスシャワーと同じように正直、綴るのは辛く苦しい限りである。それほどまでに悲しい出来事となった1997年のドバイワールドカップ。出走馬12頭中8番人気だったホクトベガ。現地の豪雨にて開催延期となり、やっと馬場が回復して行われたレースでは、馬群の中団を駆け抜けダート日本最強馬は果敢に世界の強豪馬たちと競演した。
そして、アクシデントは起きたのだった。
1997年4月3日、ホクトベガは日本から遠く離れた異国の地で星となったのである。せめてもの命だけは助かり、最強ダート女王の血が仔たちに受け継がれていたと想像すれば、未だに残念で仕方ない。
牝馬クラシック戦線で二冠馬ベガを破り『ベガはベガでもホクトベガ』とのあまりにも有名なフレーズからダート戦線で10連勝を飾り、最期は異国の地ドバイで星になったホクトベガ。その名は競馬ファンの心にずっと刻み続けるだろう。
それほど偉大であり最強牝馬の1頭だったことは間違いない。

ナグルスキー Nijinsky Northern Dancer
Flaming Page
Deceit Prince John
Double Agent
タケノファルコン フィリップオブスペイン Tudor Melody
Lerida
クールフェアー イエローゴッド
シャークスキン

生涯戦績 42戦16勝(16−5−4−17)
主な勝鞍 エリザベス女王杯、川崎記念、帝王賞、エンプレス杯


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